5分 de ヒストリー ~歴史・世界史・日本史・学び直し/クロノ
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。2024年からUdemy講師。 公式サイト:れきぞう(歴蔵) https://www.sowhatzone.com/ note https://note.com/simpleple/ X https://x.com/chrono_history Udemy https://www.udemy.com/user/song-yuan-xiu-zhi-2/
#253【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出13:科学革命その2
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第228回目は「科学革命その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
18世紀になると、科学革命の成果はさまざまな分野へ広がった。化学ではフランスのラヴォワジェが質量保存の法則を発見し、近代化学の基礎を築いた。生物学ではスウェーデンのリンネが動植物を体系的に分類し、学名の二名法を確立した。また、医学の分野ではイギリスのジェンナーが種痘法を開発して近代予防医学への道を開いた。
さらに、アメリカの政治家・科学者フランクリンは雷が電気であることを示し、避雷針を発明した。彼は後にアメリカ独立革命では外交官としても活躍している。
#252【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出12:科学革命その1
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第227回目は「科学革命」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
ルネサンス以降、人々は自然現象を神や権威の説明だけに頼るのではなく、観察や実験によって理解しようとするようになった。こうした動きは17世紀に大きく発展し、「科学革命」とよばれる時代を迎えた。
革命の出発点となったのが、ポーランドのコペルニクスである。彼は、それまで信じられていた天動説に代わり、地球が太陽の周りを回るという地動説を唱えた。さらにイタリアのガリレイは望遠鏡による観測によって地動説を支持し、自然を観察によって理解する姿勢を示した。そしてイギリスのニュートンは万有引力の法則を発見し、天体の運動も地上の物体の運動も同じ法則で説明できることを明らかにした。
#251【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出11:啓蒙思想その2
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第226回目は「啓蒙思想その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
イギリスの名誉革命や議会政治に刺激を受けたフランスの知識人たちは、絶対王政や教会の権威を理性によって問い直し、啓蒙思想を発展させた。モンテスキューは著書『法の精神』でイギリス政治を参考に三権分立を唱え、権力の集中を防ごうとした。
ヴォルテールは著書『哲学書簡』でイギリスの自由な政治や宗教的寛容を称賛し、カトリック教会の腐敗や狂信を批判した。また、プロイセン王フリードリヒ2世ら啓蒙専制君主とも交流した。
ルソーは著書『社会契約論』『人間不平等起源論』で人民主権を主張し、主権は人民にあると説いた。その思想はフランス革命に大きな影響を与え、特にジャコバン派に強く受け継がれた。
#250【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出10:啓蒙思想その1
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第225回目は「啓蒙思想」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
17~18世紀のヨーロッパで興った啓蒙思想は、教会の権威や絶対王政などの不合理を、人間の「理性」によって批判・改革しようとした思想である。その土台は、一足先に市民革命を経験したイギリスで形作られた。
ホッブズは著書『リヴァイアサン』で自然状態を「万人の万人に対する闘争」と考え、秩序を維持するため、人々が互いに契約して主権者に権力を委ねる社会契約説を唱えた。そして絶対的な主権への権力集中を肯定した。
一方、ロックは著書『統治二論(とうちにろん)』で、人間は生まれながらに生命・自由・財産を守る権利(自然権)を持つと主張した。政府がこれらを侵害した場合、国民には政府に抵抗し打倒する権利(抵抗権)があると説いた。
#249【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出9:イギリスの議院内閣制
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第224回目は「イギリスの議院内閣制」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
1707年イングランドとスコットランドが合併し、グレートブリテン王国が誕生した。その後、ステュアート朝が断絶したため、遠縁にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯を迎え、ハノーヴァー朝が成立した。
ホイッグ党のウォルポール首相は、国王に支持されていたが、議会で多数派を失ったため辞任した。これにより「内閣は国王ではなく議会の信任によって存続する」という原則が形成され、後の議院内閣制の基礎となった。
#248【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出8:イギリスの2つの革命その3
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第223回目は「イギリスの2つの革命その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
チャールズ2世の後を継いだジェームズ2世も専制政治を進めたため、議会は彼を追放し、その娘と夫を国王として迎え、メアリ2世、ウィリアム3世として即位した。これを名誉革命という。両者は「権利の宣言」を承認し、議会はこれを「権利の章典」として制定した。これにより国王の権力は制限され、イギリスでは議会主権に基づく立憲君主政の基礎が築かれた。
#247【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出7:イギリスの2つの革命その2
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第222回目は「イギリスの2つの革命その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
1649年、内戦に勝利した議会派は国王チャールズ1世を処刑し、イングランドは王のいない共和政となった。しかし実権はクロムウェルに集中し、やがて護国卿として強い権力を握ることになる。彼の死後、政治の混乱を収拾するため王政復古が進められ、1660年にチャールズ1世の息子がチャールズ2世として王位に迎えられた。
その後、カトリックへの融和姿勢や王権拡大への警戒が高まり、議会は、官職就任者に国教会への忠誠を求める審査法(1673年)や、不当な逮捕・拘束を制限する人身保護法(1679年)を成立させ、国王の権限を抑えようとした。また王位継承をめぐる論争の中から、王権を重視するトーリー党と、議会の権利を重んじるホイッグ党が登場した。
#246【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出6:イギリスの2つの革命その1
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第221回目は「イギリスの2つの革命その1」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
エリザベス1世の死後、イングランドはスコットランドから国王を迎え、ステュアート朝を開いた。国王ジェームズ1世は王権神授説を唱え、議会との対立を深めた。続くチャールズ1世に対し、議会は1628年に権利の請願を提出したが、翌年に国王は議会を解散する。
その後、スコットランドへの宗教政策に対する抵抗が起こると、チャールズ1世は戦費調達のため議会を招集した。しかし議会との対立はさらに激化し、1642年に国王派と議会派の内戦が始まった。この戦いは結果的に革命へと発展し、議会派で大きな役割を果たしたピューリタンにちなみ、「ピューリタン革命」と呼ばれる。
#245【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出5:フランスの挑戦
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第220回目は「フランスの挑戦」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
フランスでは、ルイ14世の財務総監コルベールが1664年に東インド会社を設立し、ポンディシェリやシャンデルナゴルを拠点にインドへ進出した。18世紀にはイギリス東インド会社と争ったが、1757年のプラッシーの戦いでイギリスが優位に立つ。さらに、ヨーロッパ・北米・インドを舞台に戦われた七年戦争に敗れ、1763年のパリ条約で北米植民地の大半を失い、インドでも政治的影響力を大きく後退させた。
#244【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出4:イギリスの挑戦
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第220回目は「ヨーロッパ諸国の海外進出4:イギリスの挑戦」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
イギリスは1600年に東インド会社を設立した。アジアではアンボイナ事件後、香辛料貿易でオランダに後れをとり、マドラス・ボンベイ・カルカッタなどを拠点にインド貿易へ重点を移した。北米大陸では1607年にヴァージニア植民地を建設し、さらにイギリス=オランダ(英蘭)戦争の過程でオランダのニューアムステルダムを占領し、ニューヨークと改改称するなど、植民地帝国を拡大した。
#243【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出3:オランダが築いた交易帝国その2
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第220回目は「ヨーロッパ諸国の海外進出3:オランダが築いた交易帝国その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
オランダは北米大陸にニューアムステルダムを中心とする植民地を建設するなど、世界規模の交易網を形成した。首都アムステルダムは17世紀前半に国際金融・商業の中心地として繁栄し、「黄金時代」を迎える。
しかし17世紀後半になると、航海法と度重なるイギリス=オランダ戦争(=英蘭戦争)によって海上覇権をめぐる競争で次第に劣勢となり、18世紀にはその主導的地位をイギリスへ譲っていった。
#242【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出2:オランダが築いた交易帝国1
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第220回目は「ヨーロッパ諸国の海外進出2:オランダが築いた交易帝国1」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
オランダは、インド航路を開拓して先着していたポルトガル勢力からモルッカ諸島やマラッカを奪い、ジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)を東インド会社の拠点とした。1623年のアンボイナ事件を契機にイギリス勢を後退させ、東南アジアにおける香辛料貿易の主導権を確立する。さらに台湾や日本(出島)にも進出し、アジア交易ネットワークを拡大した。
#241【通史】世界史⑫:ヨーロッパ諸国の海外進出1:覇権の争い
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第219回目は「ヨーロッパ諸国の海外進出1:覇権の争い」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
16世紀以降、ヨーロッパ諸国は海外進出を進め、海上貿易や植民地の支配をめぐって競争した。ポルトガルとスペインが先行し、17世紀にはオランダが台頭する。さらに18世紀にはイギリスとフランスが激しく争い、七年戦争を経てイギリスが海上覇権を握った。こうして大航海時代以降の世界は、海を支配する国が覇権を握る時代へと変わっていった。
#240【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界36:主権国家体制の成立その19
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第218回目は「主権国家体制の成立その19」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
16世紀後半、ポーランドではヤゲロー朝が断絶して貴族主体の選挙王政に移行した。あいつぐ戦争で財政破綻し弱体化すると、18世紀後半に周辺諸国に領土を奪われ地図上から消滅する。この出来事はポーランド分割と呼ばれ、ロシアのエカチェリーナ2世、オーストリアのヨーゼフ2世、プロイセンのフリードリヒ2世により行われた。
#239【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界35:主権国家体制の成立その18
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第217回目は「主権国家体制の成立その18」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
18世紀後半に即位したエカチェリーナ2世はピョートル1世の西欧化政策を引き継ぎ、西欧の進んだ思想や文化を積極的に取り入れた。啓蒙専制君主として内政改革を進めたが、プガチョフの乱の鎮圧後は農奴制を強化するなど反動化している。
体外面では南下政策を推し進め、露土戦争でオスマン帝国からクリミア半島を奪い、ポーランド分割にも参加した。東方ではアラスカに進出し、ラクスマンを外交使節として日本へ派遣した。
#238【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界34:主権国家体制の成立その17
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第216回目は「主権国家体制の成立その17」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
ロシアではイヴァン4世の死後に内紛が生じるも、1613年にミハイル=ロマノフがロマノフ朝を創始して収拾した。17世紀後半に即位したピョートル1世は西欧化と富国強兵策を推し進めた。
対外面では不凍港を求めた南下政策の展開や、東方での清とのネルチンスク条約締結(国境画定と陸路通商の緊密化)を進めた。さらに北方戦争でカール12世治下のスウェーデンを破ってバルト海の覇権を握り、その一角に新都サンクトペテルブルクを建設した。
#237【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界33:主権国家体制の成立その16
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第215回目は「主権国家体制の成立その16」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
1740年に男子の相続者が途絶え、マリア=テレジアがハプスブルク家の家督を相続した。女性がオーストリアを相続することに反対したフリードリヒ2世は、宣戦布告をすることなく突如シュレジエンへ侵攻。周辺のフランスやスペインもこれに便乗して参戦し、オーストリア継承戦争が勃発する。オーストリアはイギリスの支援を受けたものの苦戦を強いられた。最終的に家督相続こそ認められたものの、資源の豊富なシュレジエンをプロイセンに奪われるという実質的な敗戦を喫した。
その後、マリア=テレジアは近代化政策を推し進め、1756年には「外交革命」とまで言われた宿敵フランスとの同盟を結ぶ。失地回復を目指し、今度はイギリスと同盟を結んだプロイセンに挑み七年戦争が始まる。プロイセンをギリギリまで追い詰めたものの決定打を欠き、戦争は現状維持のまま終結。ついにシュレジエンを奪還することはできなかった。
#236【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界32:主権国家体制の成立その15
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第214回目は「主権国家体制の成立その15」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
プロイセン同様、ウェストファリア条約により帝国内の諸侯の主権が強く認められ強大化したのがオーストリアである。ルーツはマジャール人の侵入を阻止するために設置された辺境伯領で、13世紀からハプスブルク家が支配した。同家は15世紀から神聖ローマ皇帝位をほぼ世襲し名門とされた。チェコ(チェック)人の多いベーメン、マジャール人の多いハンガリー王国など、非ドイツ系の人々が多数派となる地域を抱え込んでいたため、中央集権化が難しかった。
#235【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界31:主権国家体制の成立その14
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第213回目は「主権国家体制の成立その14」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
第二代プロイセン王であるフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、領主層であるユンカーを官僚や軍人として登用し、軍隊と官僚制度を整備して絶対王政の基礎を築いた。続くフリードリヒ2世は、「君主は国家第一の僕(しもべ)」と自称し、信仰の自由の容認や産業保護などの開明的政策を行った。
彼はフランスの思想家ヴォルテールと交流し、啓蒙思想の影響を受けたことで知られる。こうした、啓蒙思想を取り入れながらも強い君主権のもとで改革を進め、上から近代化を目指した君主を「啓蒙専制君主」と呼ぶ。
#234【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界30:主権国家体制の成立その13
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第212回目は「主権国家体制の成立その13」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
ウェストファリア条約によって帝国内の諸侯の主権が強く認められ、その中からオーストリアとプロイセンが強大化していく。プロイセンのルーツは12世紀のドイツ人による東方植民にさかのぼる。
この過程でブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領が成立した。前者は後に選帝侯国となり、15世紀以降はホーエンツォレルン家が支配した。後者は1410年にポーランド・リトアニア連合軍に敗北し、1525年には世俗化されてルター派のプロイセン公国となった。
1618年には両国は同君連合となり、ブランデンブルク=プロイセンが成立する。スペイン継承戦争で皇帝を支援した見返りとして1701年に「プロイセンの王」を称することを認められ、初代国王フリードリヒ1世、プロイセン王国が成立した。
#233【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界29:主権国家体制の成立その12
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第211回目は「主権国家体制の成立その12」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
1648年に結ばれたウェストファリア条約によって、三十年戦争は終結した。神聖ローマ帝国は、フランスにアルザスの大部分を、スウェーデンに西ポンメルンなどを割譲し、さらに帝国内の諸侯・自由都市・領邦国家の主権的権利が広く認められたことで、帝国は300以上の領邦からなる分権的な国家連合としての性格を強めた。また、オランダとスイスの独立が国際的に承認され、帝国内でカルヴァン派がルター派・カトリックと並ぶ公認宗派として認められた。
#232【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界28:主権国家体制の成立その11
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第210回目は「主権国家体制の成立その11」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
ドイツではアウグスブルクの和議によるカルヴァン派の黙殺という時限爆弾を抱えていた。この不完全な平和が限界を迎え、1618年、ベーメン(ボヘミア)でプロテスタントによるハプスブルク家への反乱を機に三十年戦争が始まる。
新教側にグスタフ=アドルフやデンマークが介入し、事態は泥沼化。カトリック国のフランスが宿敵ハプスブルク家を叩くべく新教側へ回り、戦争は信仰の争いから国家の利権を奪い合うパワーゲームへと変質する。
皇帝軍の盾となったヴァレンシュタインは自前で調達した巨大な傭兵団を駆使し、旧教側の防衛線を死守したが、ドイツの人口は激減、都市や農村が荒廃して近代化が遅れる要因となった。
#231【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界27:主権国家体制の成立その10
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第209回目は「主権国家体制の成立その10」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
太陽王と呼ばれたルイ14世の時代はフランス絶対王政の全盛期とされるが、その輝かしい栄光の裏側では、構造的な財政難が深刻化した。度重なる対外戦争による戦費の増大、そして荘厳華麗なバロック様式のヴェルサイユ宮殿は、莫大な建築費用を要し、維持費や宮廷行事の運営費が大きな負担となる。
1685年にナントの王令を廃止すると、信仰の自由が奪われた商工業を担っていたユグノーがオランダ、イギリス、スイスなどへ亡命し、フランス国内の産業や経済活動が深刻な打撃を受けた。
#230【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界26:主権国家体制の成立その9
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第208回目は「主権国家体制の成立その9」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
ルイ14世は23歳で親政を開始し、王権の強化に乗り出した。彼は強力な常備軍を整備するとともに、コルベールを財務総監に登用し、国家主導で産業と貿易を育成する重商主義政策を推進した。対外的には、領土拡張を目的とした戦争を積極的に展開した。こうした中、1701年にスペイン継承戦争が勃発すると、フランスはスペインと結び、イギリスやオーストリアなどと対峙することになる。
戦争は長期化したが、1713年のユトレヒト条約によって終結し、ルイ14世の孫によるスペイン王位継承が認められた。ただし、フランスとスペインが同一の君主のもとに統合されることは禁じられた。さらにこの講和により、フランスはハドソン湾地方・アカディア・ニューファンドランドをイギリスに割譲し、スペインもジブラルタルとミノルカ島をイギリスへ手放すこととなった。
#229【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界25:主権国家体制の成立その8
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第207回目は「主権国家体制の成立その8」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
フランスはブルボン朝のもとで絶対王政を確立する。アンリ4世が宗教内乱を終結させて基盤を築くと、続くルイ13世は、宰相リシュリューのもとで全国三部会の招集が停止され、三十年戦争への介入を通じて国際的地位を高めた。
1643年に即位したルイ14世の幼少期には、宰相マザランがウェストファリア条約で領土を拡大。国内で起きた貴族の反乱(フロンドの乱)を鎮圧したことで、王権は盤石となった。
#228【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界24:主権国家体制の成立その7
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第206回目は「主権国家体制の成立その7」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
16世紀後半のフランスでは、貴族や商工業者を中心にユグノーと呼ばれる新教徒が増え、旧教(カトリック)との対立が深まる。内戦に発展し1562年にユグノー戦争が始まった。
戦争中の1572年に、サンバルテルミの虐殺が起こり、対立は抜き差しならない泥沼の権力闘争へと変質する。1589年、ヴァロア朝が断絶すると、新教徒の首領であったナヴァル王アンリがアンリ4世として即位し、ブルボン朝を創始する。
彼はカトリックに改宗して旧教徒との融和を図った。1598年、ナントの王令を発布してユグノーに信仰の自由を認め、30年以上続いた戦争は終結を迎えた。
#227【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界23:主権国家体制の成立その6
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第205回目は「主権国家体制の成立その6」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
内政を整えたエリザベス1世は、ついに巨大帝国スペインへの挑戦を開始する。スペインの圧政に苦しむオランダの独立を支援した。支援を敵対行為と見なしたスペインは、ロンドンに向けて無敵艦隊(アルマダ)を派遣した。王直属の軍隊だけでなく、民兵たちが海岸線を固め、海では「海賊」とも称された航海士たちが、機動力に欠ける巨大艦隊を翻弄し、嵐も重なり海戦に勝利する。
イギリスの統治システムは、王権が全国に網の目を張り巡らせる「官僚制」ではなく、ジェントリ(郷紳)を治安判事に任命して地方行政を担当させるなど「地方自治」的な性格が強かった。さらに大規模な常備陸軍を持たず、有事はヨーマン(独立自営農民)らの民兵で対応した。
#226【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界22:主権国家体制の成立その5
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第204回目は「主権国家体制の成立その5」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
イギリスでは15世紀末に、ヘンリ7世がバラ戦争を終結させてテューダー朝を開く。彼は星室庁裁判所を整備して貴族を抑え、王権の基礎を固めた。続くヘンリ8世は、自身の離婚問題を契機として、1534年に首長法を制定し、ローマ教会から独立する。修道院の領地を没収するなどして王権を強化した。絶対主義の全盛期を築いたエリザベス1世は、国内では統一法でイギリス国教会を確立し宗教的混乱を収束させる。また救貧法(きゅうひんほう)を制定して第1次囲い込みで生じた没落農民の対策を行った。
#225【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界21:主権国家体制の成立その4
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第203回目は「主権国家体制の成立その4」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
スペインから独立を果たしたオランダは、ただの小国では終わらず世界を動かす「海の帝国」へと変貌する。中心は、首都のアムステルダムで、ここではバルト海貿易を軸に造船・貿易・金融が結びつき、ヨーロッパ経済の心臓となった。スペイン帝国の力が衰退していくなかで軍事ではなく「貿易と金融」で覇権を握る新しいタイプの帝国となり17世紀前半は「オランダの世紀」と呼ばれた。
#224【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界20:主権国家体制の成立その3
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第202回目は「主権国家体制の成立その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
ネーデルラントは毛織物工業とバルト海貿易による国際商業が発達していた。しかし、スペイン王フェリペ2世による重税やカトリックの強制に対し、オラニエ公ウィレムの指導のもと独立戦争を開始する。
1579年、カトリック教徒の多い南部10州はスペイン側に妥協して離脱したが、プロテスタントの多い北部7州はユトレヒト同盟を結成して抗戦を続けた。1581年にはネーデルラント連邦共和国として独立を宣言する。その後も戦争は継続したが、1609年の休戦協定によって事実上の独立を勝ち取り、オランダ独立戦争は実質的な終結を迎えた。そして1648年、三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約によって、国際的にも正式に独立が承認された。
#223【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界19:主権国家体制の成立その2
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第201回目は「主権国家体制の成立その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
カルロス1世の後、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分裂した。スペイン王位を継いだフェリペ2世は、マドリードを拠点に中央集権化を進め、国家のまとまりを強化した。1571年のレパントの海戦でオスマン帝国の西進を阻止し、1580年にはポルトガルを併合。広大な海外領土を擁する「太陽の沈まぬ帝国」と言われ、全盛期を迎えた。
しかし、強硬なカトリック政策はオランダ独立戦争を招き、1588年の無敵艦隊(アルマダ)がイギリス海軍に敗北したことは、新興勢力の台頭を許すスペイン覇権の転換点となった。
#222【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界18:主権国家体制の成立その1
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第200回目は「主権国家体制の成立その1」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
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スペインでは、カルロス1世が即位し、中南米への進出が進んだ。彼はスペイン王であると同時に、神聖ローマ皇帝にも選ばれ、ヨーロッパ各地にまたがる広大な領域を支配した。スペイン本土に加え、ドイツ、イタリア、ネーデルラント、さらには新大陸にまで影響力を持った。
しかし、この支配は「一つの国家」ではなかった。それぞれの地域は独自の制度や法律、文化を持ち続けており、それらを一つにまとめる強い中央権力は存在していなかった。つまり近代国家ではなく、中世的な「寄せ集めの帝国」だった。
さらに彼は、イタリア戦争などでフランソワ1世と激しく争う。多くの地域を抱え込むハプスブルク家の帝国と、まとまりつつあるフランス王国との衝突。ここに、後の「主権国家の時代」につながる重要な流れがすでに見えていた。
#221【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界17:絶対王政その2
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第199回目は「絶対王政その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
絶対王政の強大な国家権力を支えていたのは、莫大な財源を確保するための「重商主義」という経済政策だった。
国家の富は貴金属の量で決まると考えた各国は、初期には金銀を直接獲得する政策(重金主義)をとったが、やがて輸出を伸ばして輸入を抑えることで貨幣を蓄積する「貿易差額主義」へと移行する。このため、政府は高い関税で自国産業を保護し、生産性の向上を強く推し進めた。
この過程で、商人が農民に道具を貸して製品を作らせる「問屋制家内工業」から、労働者を一箇所に集めて分業を行う「工場制手工業(マニュファクチュア)」へと生産体制が進化する。このように、絶対王政とは国家が経済活動に深く介入し、後の産業革命へとつながる近代的な生産基盤を整えた時代でもあった。
#220【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界16:絶対王政その1
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第198回目は「主権国家の成立その1」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
16世紀から18世紀のヨーロッパで成立した絶対王政は、中世の分散していた権力を国王へ一元化した。かつての国王は諸侯のまとめ役に過ぎまなかったが、大規模化する戦争に対応するため、貴族の力に頼らない独自の支配基盤を構築する。その中核となったのが、行政を管理する「官僚制」と、王が直接指揮する武力である「常備軍」だった。
この強力な権力を正当化するために「王権神授説」という思想が用いられ、王の権威は神から授かった不可侵のものと定義された。つまり絶対王政とは、単なる個人の独裁ではなく、行政・軍事・思想の三要素を統合した合理的な国家システムだったといえる。
#219【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界15:宗教改革その7
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第197回目は「宗教改革その7」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
ルターやカルヴァンの宗教改革に対して、カトリックが行った対抗宗教改革は、カトリックの「立て直し」と「巻き返し」の動きだった。
イグナティウス=ロヨラやサビエルらが創設したイエズス会は、教育と宣教を武器に、ヨーロッパ内部だけでなくアジアや新大陸にも進出し、失われた信者の回復を目指した。
一方、トリエント公会議で教義を明確にし、「信仰と善行の両方で救われる」と再確認する。さらに、聖職者の教育を強化し、腐敗の是正にも取り組んだ。また、禁書目録を定め、宗教裁判を強化した。
#218【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界14:宗教改革その6
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第196回目は「宗教改革その6」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本文
宗教改革の動きは16世紀のイギリスにも波及する。テューダー朝の国王ヘンリ8世が離婚問題と王権強化を背景にローマ教皇から離脱したことに始まる。首長法によって国王を教会の長とし、修道院を解散して教会財産を掌握した。その後、エドワード6世のもとで一般祈祷書が制定されプロテスタント化が進むが、メアリ1世は一時的にカトリックへ復帰させた。最終的にエリザベス1世が統一法などにより国教会を再編し、イギリス国教会が確立された。
#217【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界13:宗教改革その5
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第195回目は「宗教改革その5」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
スイスのチューリッヒではツヴィングリが、次いでジュネーブでカルヴァンが宗教改革を行った。カルヴァンは『キリスト教綱要』において、魂の救済はあらかじめ神によって定められているとする予定説を主張した。人間の行いによって救済が決まるわけではないが、勤勉で禁欲的な生活は「救われる者のしるし」と考えられた。
その結果、労働によって得た利益の蓄積は否定されず、この思想は新興の商工業者の間に広く支持された。また彼は司教制を廃止して長老制を採用し、ジュネーブにおいて教会と市政が密接に結びついた教会主導の道徳統制社会を行った。
#216【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界12:宗教改革その4
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第194回目は「宗教改革その4」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
皇帝の宗教政策に抗議したルター派諸侯は、「抗議する者」を意味するプロテスタントと呼ばれるようになった。1555年にはアウクスブルクの和議が締結され、ルター派は公認され、カルヴァン派など他の新教は認められなかった。この和議では「領主の宗教が領民の宗教となる」という原則が定められ、各領邦の君主がカトリックかルター派かを選択する権限を持つことになった。
しかし、特にカルヴァン派が排除されたことへの不満は解消されず、これが後の三十年戦争の遠因となる。こうしてドイツでは、領邦君主が教会を統制する領邦教会制が確立していった。
#215【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界11:宗教改革その3
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第193回目は「宗教改革その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
ルターの活動に刺激され、既存の秩序に不満を抱く農民階層が蜂起した。ミュンツァーが指導したドイツ農民戦争に対し、ルターは当初、農民の窮状に理解を示しつつも暴力には反対する中立的な立場をとった。しかし、運動が過激化・暴徒化するとルターは明確に不支持を表明し、諸侯側に徹底的な鎮圧を促した。結果、農民戦争は鎮圧されて農奴制が維持・強化され、これがドイツが近代化に遅れる原因の1つとなった。
一方、対外関係ではイタリア戦争やオスマン帝国の圧迫に直面した皇帝カール5世が、1526年にいったんルター派を事実上容認した。しかし、情勢が好転した1529年に再びルター派を禁止。これに強く抗議したルター派の諸侯や都市は、のちにシュマルカルデン同盟を結成して結束を固め、ついには皇帝側との内戦へと発展していった。
#214【通史】世界史⑪:近代ヨーロッパ世界10:宗教改革その2
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第192回目は「宗教改革その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。
◇オリジナル基本
ドイツのヴィッテンベルク大学教授、ルターは、1517年に『九十五ヶ条の論題』を発表し、贖宥状(免罪符)の販売を厳しく批判し、宗教改革が始まった。彼はライプツィヒ討論を経て教皇の権威を否定したことで破門を宣告されるが、その一方で『キリスト者の自由』を著し、「聖書のみ」をよりごろととし、「信仰のみ」によって救われると、改革の根幹を示す。
その後、皇帝カール5世が招集したヴォルムス帝国議会に喚問されるも、自説の撤回を拒否したため帝国追放処分を受ける。しかし、反皇帝派であるザクセン選帝侯フリードリヒの保護下で、潜伏先のヴァルトブルク城にて『新約聖書』のドイツ語訳を完成させ、信仰のあり方を民衆へと広めた。