英隆一朗神父の福音お休み処
【ミサ説教】ルカ福音書9章11b-17節「関わりのなかでパンは増える」
ルカ福音書9章11b-17節「関わりのなかでパンは増える」2025年6月22日聖体の主日カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエス様は弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃいました。イエス様の力は人間の働きを通して現れます。大分教区のある教会や、昔のアメリカの婦人の善意の「恩送り」も「パンの増加の奇跡」と言えるのではないでしょうか。
お返しをするんじゃなくて、受けた恩を他の人に送ることを「恩送り」って言うよね。
ルカ福音書9章11b-17節
11b〔そのとき、イエスは群衆に〕神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
関わりのなかでパンは増える
今日の福音書はルカ59章いわゆるパンの増加の奇跡ですね。イエス様のもとには5つのパンと2匹の魚しかなかったわけですけれども、それを増やすことによって、男だけで5000人の人々が満腹するほどのパンに増えて、しかもその余りが10、パンくずが12かごぐらいのたくさんのパンが増えたという特別なイエス様の奇跡の力が発揮されたということだと思います。
私はイスラエルに行くのが好きで、イスラエル巡礼によく行くんですが、イエス様がこのパンの増加をしたところはタブハというところなんですが、そこはもう本当に素晴らしいところで。イエス様がパンを増やしたというところが御聖堂になっているんですけれども、何かそのイエス様のパワーっていうんですかね、それは今でも感じられて、そのイエス様が本当に神様の力を十分に発揮して、このようにたくさんのパンを増やしたというのは確かなことじゃないかなということを強く思いました。
今では現代的な解釈でイエス様のそういう超人的な力が働いたのではなくて、みんな本当はパンを持っていたから、実際は5000人の人が持っているものを分かち合ったから、そのようにみんなが満腹したんだというふうに解釈することもあるんですが、それはそれでちょっと無理がある解釈ではないかなあと思いますが、いずれにせよ、イエス様の特別な力が働いただけじゃなくて、弟子たちも協力をしたのも確かなわけですね。
イエスが言われた、あなた方が彼らに食べ物を与えなさいというふうに言ったわけなんですけど、でも実際パンは5つなわけですね。すべての人々のためにパンを買いに行くとしたら大変なことになるということを言ったんですけど、でも、イエス様の力と弟子たちの協力があったからこそ、多くの人は満たされたわけです
【ミサ説教】マタイ福音書5章38-42節「本当の癒しは」
マタイ福音書5章38-42節「本当の癒しは」2025年6月16日癒しのミサ、釜ヶ崎旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ本当に大事にしていきたいことがあるなら、人は自分の困難も厭わずに強くなれます。本当の癒しは、最終的には困難を突き抜けて神についていく強い信仰を持つことでしょう。
私たちもパウロのように覚悟を持って歩んでいきましょう。
旅路の里の癒しのミサでした
マタイ福音書5章38-42節
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
本当の癒しは
今日の福音書は割と有名な箇所ですね。マタイによる福音書の右の頬を打つなら、左の頬を向けなさいという有名な、たぶん聖書の言葉で最も有名な言葉じゃないかなと思うのですが、最も有名だけれど、最も実践するのが難しいと言いますかね、右の頬を打たれてなかなか左の頬を出すというのは、そんなに簡単にできることではない。
殴られたらそうだね、この野郎と言って殴り返すというのが殴り返せなくても怒ったりするのが、あるいは少なくとも1発撃たれたら2発目は受けないように防御するというのが普通なわけですけど。でもイエス様の教えはちょっとレベルを超えてますよね。
右の頬を打たれたら左の頬も出せという。
なんでこれができるのか、どうなのかということですけれど、やはり神様を信じるというか、何かこう何かもっと大切なものがあると、こういうことができなくもないですね。
ここを読んで一番思い出すのは、フランシスコザビエルが500年ぐらい前から日本に来て、それでもって人々にキリスト教を初めて伝えたんですよね。
で、その時にそ山口だったと、僕のいる山口県のところだったと思うんですが、彼じゃなくて一緒に来たブラザーだったと思うんですよね。ブラザーフェルナンデスだったかな、何かが辻説法と言って、路上で道路に別に教会もないからそこで説教してたんですよね。
みんなが野次馬が集まってきて話を聞いてて、一人の人が馬鹿にして唾を吐いて唾を吐いたのが右の頬についてですね、彼は何事もなかったようにそれをハンカチで拭いて、そのまま説教を続けてやったんですよね。
それを見たお侍さんがこの人は本物だと。唾まで吐かれても全然怒らず、全然気にせずにですね。それで説教を続けたので、それで感動して、その一人のお侍さんが彼のところに行って洗礼を受けた。それが多分第1号だったと思うけれども。
だからこの右の頬を打たれても気にしないで生きていくっていうのは、何かこう、もっと何か自分が大事にしたいものがあって、それをこうやっていこうとする時に、実際そういうことができるっていうか。
だから何か生きていく次元がちょっと違うようなことになったら、それができるわけですよね。
他の例で言ったら、クリスチャンじゃないんですけど、インドの独立の父のガンジー。ホンマにレベル超えてて。
ガ
【ミサ説教】ヨハネ福音書14章15-16, 23b-26節「聖霊の恵みは共同体の祈りから」
ヨハネ福音書14章15-16, 23b-26節「聖霊の恵みは共同体の祈りから」2025年6月8日聖霊降臨のミサ カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころクリスチャンの最大のお恵みは一人一人に聖霊の恵みが与えられていることでしょう。そして共同体に与えられた聖霊の恵みは大きな力を発揮して世の中を変えることもあります。悪の力に負けないように、心を合わせた祈りの力によってさらに大きな恵みが与えられるよう祈りましょう。
一緒に祈ることは大事なんだね
ヨハネ福音書14章15-16, 23b-26節
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
23bわたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
聖霊の恵みは共同体の祈りから
イエス様が復活されて、そして昇天した後、わたしたちに聖霊の恵みが与えられた。わたしが思うのですが、クリスチャンとして生きる中で、やはり最も大きなお恵みはなにかと言ったら、わたしたち一人一人に聖霊の恵みが与えられているということですね。
それは本当にどんな宝物をもらうよりも、何か宝くじが当たって、お金がたくさん入ってくるよりも、もっと素晴らしい贈り物だというふうにつくづく思います。聖霊の恵みがあるから、わたしたちの心に慰めや喜び、励ましの心が与えられるわけだし、困難があったときに、それを乗り越える力、あるいはわたしたちが人を愛していく力、すべて聖霊の恵みから来ているわけですから、聖霊の恵みが与えられて、そしてこの聖霊の恵みを生かしていくということ自身が、わたしたちにとって本当に大きな恵みだというふうに思います。
今日の第1朗読で、最初の聖霊降臨の出来事が描かれていますが、一番最初の聖霊の降臨の恵みは一人一人に与えられているけれども、実はこの共同体全体に与えられる共同体への恵みなんですね。みんなが聖霊の恵に包まれた時に、この違う言語を話す人々の言葉のバリアーがなくなってしまって、みんな共通理解というか、同じ心、同じ思いをみんなが抱くことができた。そこから私たちの信仰教会が始まったということですね。この共同体に働いている聖霊の恵みも、私たちは大切にすることができたらいいのではないかというふうに思います。
でも、しかしながらですね、聖霊の恵みが与えられる現実があるとともに、この共同体というか、人間の集まりには悪の力がものすごく働くことも、みんなが悪の方に動かされることもあるということですね。それも私たちは気をつけてなきゃならないことだというふうに思います。
最近は特にSNSを通して選挙とかですね、何かを通しても何かものすごいある方向から情報が流されたら、みんなそっちの方向にあっという間に流
ルカ福音書24章46-53節「神様の大きさを知る」
ルカ福音書24章46-53節「神様の大きさを知る」2025年6月1日主の昇天のミサ カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ主の昇天の意味は、イエス様が神様のところ、本来の居場所に戻ったことにあります。イエス様はギリシア正教会の教会の天井に表されるような天空を覆うような大きな存在であるということです。そのような大きな視点から見たら、自分の悩みの小ささがわかるでしょう。イエス様はいつもそばにいてくださると同時に、大きな存在であることを思い起こしたいものです。
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もう売ってない本なので、図書館で探してみてください。
ルカ福音書24章46-53節
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には〕46次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
神様の大きさを知る
今日の祝日は、主の昇天の祝日。イエス様が天に上げられたということをお祝いしています。イエス様が復活してから40日間、弟子たちにたびたび現れた後、多分オリーブ山の上にオリーブ山の頂上にいる時に、天に上げられた、なかなか天に上げられた風景を考えると、何かアニメ映画みたいで、なんかちょっとぴんとこない。
天空に上がっていたっていうことですから、ちょっとみんなにあっけにとられたんでしょうけれども、実際何を意味しているのか。主の昇天というのはですね、イエス様が天に上げられて神の右の座についたということですね。
それは、右の座というのは神様、王様の場合だったら、右の座というのはいわゆる右大臣ですけれど、右の座というのは王様と同じ権力というんですかね、権限を持つ者という意味なんですね。
だから、イエス様が天に上げられて神の右の座に就いたということは、イエス様が神と同等の存在になったというか、あるいはもっと前から考えたら元の位置に戻ったとも言えるかもしれないですけど、イエス様が神の右の座に就いて、神様としての力をいわば全世界に発揮することができるようになったということなんですね。
天に上げられず、もしこの2000年間、人々に復活し続けたら、それはそれで面白かったでしょうけど・・・。あちこちに突然現れて、この教会にも一回ぐらいイエス様が現れてくださって、皆さんに話すことがあったかもしれないですけど、やはりちょっとそれは限界がありますから、やはり天に昇って神様として全世界に愛と力を与える存在になったということで、それはイエス様にとってふさわしいことであると思います。
そしてさらに言うならば、やはり私たちはそのようなイエ
【ミサ説教】ヨハネ福音書14章23-29節「三位の神と共に住む」
ヨハネ福音書14章23-29節「三位の神と共に住む」2025年5月25日復活節第6主日のミサ カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ私たちの心の中に、あるいは存在の奥深くに、主なる神様とイエス様、そして聖霊が住んでおられます。
それはイエス様が約束してくださっていることです。それに気づくのは自分への囚われから離れたとき。
自分から離れれば離れるほど神がともにいることに気づくでしょう。
「エリザベト」は「神の家」という意味なんだね
ヨハネ福音書14章23-29節
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。14・23「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」
三位の神と共に住む
今日の福音書は、ヨハネの14章イエス様の告別説教と言って、最後の晩餐の席でイエスが長く語られた言葉の一部分が朗読されています。なかなか今日の聖書の言葉もいろいろ大事なところが多いのですが、やはり一つの箇所を取り上げると、最初のところなんですよね。イエスを愛する人はイエスの言葉を守る。そうすると、そして、イエスの父はその人を愛され、その後なんですけど、父とイエスとはその人のところに一緒に住むって書いてあるんですよね。
神様とイエス様が一緒に住んでくださるというんだから、ちょっとこれはびっくりだなあというふうに常々思うところの一つですけれども、私たちが現代に生きていて、人間の苦しみを半分に分けて言うならば、一つはですね、孤独の苦しみというか、実際ひとりひとぐらいされている方も多いと思いますが、一人だけで暮らして、寂しさとか孤独を感じて何か悩む人がおられるかもしれない。もう片方はですね、誰かと一緒に暮らしている苦しみというんですかね、合わないというか、喧嘩したり、何かごちゃごちゃして何か落ち着かない。
それが親子だったり、夫婦だったり、介護が必要とか、いろいろなことで、結局私たちは誰かと一緒に住む苦しみか、誰とも一緒に住まない孤独の苦しみか、どっちかに触れがちですけれど、でも、私たちが誰と住んでいようが進んでいまいが、人間とですね、でも根本的に私たちの中に神様が住んでおられるというですね、それが一番大きな事実で、それを私たちが本当に生きていけるかということが、私たちクリスチャンにとっては最も大事なことでしょう。
カルメル会の聖人で三位一
ヨハネ福音書10章27-30節「ファチマの祈りの場」
ヨハネ福音書10章27-30節「ファチマの祈りの場」2025年5月11日復活節第4主日のミサ カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ長府教会はファチマの聖母に捧げられた教会です。
ファチマはの預言は非常に厳しい内容ですが、ファチマの地に実際行ってみると、祈りと犠牲を捧げる人がたくさんいて、非常に清らかな空気を感じられる場所でした。長府教会もファチマのような清い祈りの場になってほしいと願っています。
(教会祭の日のミサ)
ファチマの聖母への祈り カトリック中央協議会
福音朗読 ヨハネ福音書10章27-30節
〔そのとき、イエスは言われた。〕27「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」
ファチマの祈りの場
今日の福音書はヨハネの10章善き羊飼いの譬えのところを朗読するようになっています。私の羊は私の声を聞き分けるというふうにイエスをおっしゃいます。イエス様が羊飼い、善き羊飼いであって、私たちは羊であるということですね。
実際、あまり日本でも羊がいないからあれですけど、当然羊飼いはいつも羊と一緒ですから、羊飼いの声をちゃんと聞いて、羊飼いが呼びかけたら羊がちゃんと従っていく。羊は羊飼いの声をよく知っていて、それに従うというわけですね。
皆さんの中で、もし犬を飼っている方々がおられたら、やっぱり犬は羊飼い、飼い主のことをよく分かっていますから、呼びかけたり、いろいろああしろ、こうしろと言ったら、賢い犬ならばたそれと同じように羊も羊飼いに声に聞き従っていくということですね。
羊飼いはイエス様ですから、私たちはイエス様の声を聞いて、それに私たちが従っていけるようにですね、改めてその恵みを願いたいと思います。もちろん、イエス様の声は直接神様の声は聞こえないことが多いですけれど、でも、いろんな人を通して神様が私たちに呼びかけておられるということですね。
フランシスコ教皇を通して、本当に素晴らしいメッセージや励ましや刺激をたくさん受けましたが、この新しいレオ14世になってどういうメッセージを私たちにくださるのか、楽しみでもありますけれども、やはりリーダーとか教会のリーダーを通して、私たちはこの羊飼いの声を聞くことができるということは確かなことじゃないかなと思いますね。
でも、そういうリーダーとか。司教さんとか神父さんとか、そういう方々を通して神の声を私たちが聞いていくということも一つですが、いろんな形で私たちは神の声を聞いていくということですね。このファチマの聖母のメッセージを告げたのは、ポルトガルの田舎のファチマでですね、まさしく羊飼いか何かの家に生まれた子供か何かだと思うんですけど、ルチアとヤシンタとフランシスコという3人の少年少女にマリア様が現れて、そして様々なメッセージを語られたわけですね。
不思議
【ミサ説教】ヨハネ福音書21章1-19節「苦しみののちに今」
ヨハネ福音書21章1-19節「苦しみののちに今」2025年 5月4日復活節第3主日のミサ カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころペトロたちは夜通し苦労して漁をしても魚がとれませんでした。ですが、復活した主の恵みによって奇跡が起こりました。日本のキリシタンたちも多くの苦しみの中で殉教しましたが、死後長い年月ののち、今も私たちに希望を与えてくれます。これこそ主の復活のお恵みではないでしょうか。私たちも困難や苦労の方が多い人生かもしれませんが、必ずどこかで復活した主の力が働くときがあるはずです。
「津和野の乙女峠祭り」は盛況だったようですね!
福音朗読 ヨハネ福音書21章1-19節
1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
《15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っ
【ミサ説教】ヨハネ福音書20章19-31節「出向いていく、迎え入れる」
ヨハネ福音書20章19-31節「出向いていく、迎え入れる」2025年4月27日復活節第1主日のミサ カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ復活したイエス様は弟子たちに出かけて行って福音を述べ伝えるよう命じました。
帰天されたフランシスコ教皇は、まさに困っている人々のところに出向いて行った人でした。
出向いていく、ということは、裏返せば迎え入れるということではないでしょうか。
私たちも彼の精神を生きて行きたいと思います。
英神父さんも関わった「教皇フランシスコ キリストとともに燃えて――偉大なる改革者の人と思想」明石書店 がおすすめにゃ。
福音朗読 ヨハネ福音書20章19-31節
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
出向いていく、迎え入れる
今日の朗読は、ヨハネの20章のところ、男の弟子たちにイエス様が現われるところですけれども、彼らはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる外に家の外に鍵をかけていた。引きこもっていたというか、鍵をかけて自分たちも迫害されるのではないかという恐ろしさから、やはり殻に閉じこもっていたというか、防御というか、なるべくもかかわらず関わらないようにという、そういう非常に受け身の姿勢になっていたわけですけれども、復活した所がまさしく彼らの真ん中に現れて、そして「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」と言って、いわば閉じているところから扉を開いて、神様の人間に従って派遣というか、出て行きなさいということを言うわけですね。
実際、復活した人の力と聖霊の恵みに満たされて、彼らは外的な
【ミサ説教】ルカ福音書24章1-12節「復活の恵みは希望」
ルカ福音書24章1-12節「復活の恵みは希望」2025年4月20日復活の主日のミサ カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
パンドラの箱に最後に残っていたのは「希望」ですが、イエス様が復活された「空の墓」にあったのも「希望」だったといえるでよう。私たちの苦しみはイエス様が復活しても絶えることはありませんが、私たちには「希望」という恵みが与えられてい流のです。
みなさまご復活おめでとうございます!
福音朗読 ルカ福音書24章1-12節
1週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
復活の恵みは希望
今日の福音書は、ヨハネの20章のイエス様の復活の出来事の最初の場面の朗読です。一番最初、弟子たちが、女性の弟子も男性の弟子も体験したことは何かと言ったら、イエスを葬ったお墓が空っぽだったという空の墓、何もなかったということですけど、そこからイエス様のこの復活の出来事がいわば始まっていくわけですね。
お墓に遺体がないということですから、ちょっと間が抜けているというか、あるべきところにあるものはないということですね。そこからイエス様の復活の恵みが、つまりイエス様の体は復活して、もう別のところに行ってしまったということですけれども、実際、その後からのお墓の中で一体何が残っていたのかということなんですね。
ちょっとお話はちょっと違う、ちょっと違う話なんですが。ギリシャ神話の中にパンドラの箱というのが出てくるわけですね。日本語でもそんなによく使うわけじゃないですけど、日本語はどちらかと地雷を踏むみたいな感じで、触れてはいけないものに触れちゃって、それでその人が爆発して、何か悪いものがいっぱい出てきて、そういうことをパンドラの箱とかパンドラの箱を開けるとかいうんですが、それはギリシャ神話から来ていてですね、ゼウスが、プロメテウスにいろいろして、人間に良いこと
をプロメテウスがして、その罰の一つなんですけど、罰の一つというかなんかで、この最初の人間の女性を作るんですよね。その最初の人間が、人間の女性がパンドーラというんですけど、パンドーラという女性を作った時に、そのゼウスは彼女に一つの箱を与えるんですよね。そこからパンドラの箱
【ミサ説教】ヨハネ福音書18章1-19:42節「釜石のクマのぬいぐるみの思い出」
ヨハネ福音書18章1-19:42節「釜石のクマのぬいぐるみの思い出」2025年4月18日聖金曜日主の受難 カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエス様は私たちの罪の償いの痛みを引き受けてくださいました
イエス様は私たちの痛みや苦しみ、辛さのあたりどころとなってくださっているのです
イエス様はしっかりそれらを受け止めてくださいます
今日の受難の朗読は長いので、録音ではカットしてあります。録音はお説教から始まります。
福音朗読 ヨハネ福音書 18章1-19:42節
(夕食のあと、)イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証
【ミサ説教】ルカ福音書23章1-49節「終わりのときははじまりのとき」
ルカ福音書23章1-49節「終わりのときははじまりのとき」2025年4月13日受難の主日ミサ カトリック長府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ十字架にかかったイエス様を見て弟子たちは絶望してしまったに違いありません
ですが、その後のイエス様の復活からほんとうの新たな歩みが始まりました
私たちの人生には幾度も挫折や失望があるでしょう
そのときから新たな歩みが始まるのです
その新たな道を、希望を持って歩んで行きましょう
長府教会でのミサ説教です!
福音朗読 ルカ福音書23章1-49節
〔そのとき、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは〕1立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。2そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」3そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。4ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。5しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
6これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、7ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。8彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。9それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。10祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。11ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。12この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
13ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。1
【ミサ説教】ヨハネ福音書8章1-11節「さらに次の一歩を踏み出していこう」
ヨハネ福音書8章1-11節「さらに次の一歩を踏み出していこう」2025年4月6日四旬節第5主日ミサ六甲カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
私たちをゆるしつづけてくださる神様には感謝の思いしかありません そして感謝が増すほど、悔い改めの心も深まります 感謝と悔い改め、この二つしか私たちにはないでしょう その思いのうちに、さらに次の一歩を踏み出して生きていきたいと思います英神父さんは4月8日に六甲教会から山口県の長府教会の主任司祭代行として異動なさいました!
ヨハネ福音書8章1-11節
1〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。
2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
さらに次の一歩を踏み出していこう
今日の福音書はヨハネの8章非常に印象的なエピソードです。姦通の現場で捕えられたということで。その場合は、ここにある通り、死刑で石で撃ち殺すという死刑の罪を帯びなければならないということなのでしょうか。でも、この女の人を死刑にするよりも、イエスを試すためにこの死刑に定められた女性を連れてきて、この女の人をどうするか、イエスを試したかったわけですが、でもイエス様が全
【ミサ説教】ルカ福音書15章1-3、11-32節「私たちの故郷」
ルカ福音書15章1-3、11-32節「私たちの故郷」2025年3月30日四旬節第4主日ミサ六甲カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
私たちにとって放蕩息子のように帰って来られる故郷は神様のところです 神様のもとで安心して休むことができます 放蕩息子のお父さんは神様のことですが、その憐れみは母性的でもあります 父であり、母である神様のから恵みと力をいただいて日々の困難を乗り越えていきましょう神様の「憐れみ」は、「子宮が痛む」ような気持ちなんだね
福音朗読 ルカ福音書15章1-3、11-32節
1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。
11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝
【ミサ説教】ルカ福音書1章26-38節「どうしてこのようなことが、と思うとき」
ルカ福音書1章26-38節「どうしてこのようなことが、と思うとき」2025年3月24日いやしのミサ旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
マリア様の生涯は「どうしてそのようなことがありましょうか」の連続だったでしょう これは、私たちの人生でも同様です その答えはすぐに得られるものではありません また、すぐに受け入れられるものでもありません ただ、十字架のイエス様と共に歩むことしかないでしょう 十字架の先にこそ恵みがあるからです3月25日の神のお告げの祝日の朗読箇所です
福音朗読 ルカ福音書1章26-38節
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。
そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。
どうしてこのようなことが、と思うとき
ルカの1章イエス様はマリア様がイエス様を身ごもった時のエピソードが語られているのですよね。イエス様の誕生日が12月25日ですから、9ヶ月間マリア様の中にいたということで、この3月25日がイエス様がマリア様の体に宿ったということを記念している
【ミサ説教】ルカ福音書13章1-9節「失敗から新たな自分になる」
ルカ福音書13章1-9節「失敗から新たな自分になる」2025年3月23日四旬節第3主日ミサ堺教会黙想会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
災難や困難、あるいは失敗したときにそれをどう受けとけていくか 「失敗学」によれば失敗から学ぶことができた人が成長できるそうです ある意味イエス様の十字架は戦況の最大の失敗です ですが、十字架がなければ復活はなく、復活があったからこそ大きな神の恵みが与えられたのです この聖年を、罪からの回心と償いを通して新しい人を生きるよう祈っていきましょう岩村昇先生の本「みんなで生きるために(復刻版)ネパールの人々に寄せるある医師の人間愛」>>
福音朗読 ルカ福音書13章1-9節
1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
【ミサ説教】ルカ福音書4章1-13節「三番目の誘惑」
ルカ福音書4章1-13節「三番目の誘惑」2025年3月9日四旬節第1主日ミサ六甲カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
望みが叶うように祈るのとき、それが神のみ旨かどうかよくきいて見ることが大切です 神のみ旨を謙遜に果たしていくならば、苦しみの中にも喜びと心の平安があるはずです三番目の誘惑が一番キツかったという説。
福音朗読 ルカ福音書4章1-13節
1〔そのとき、〕さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」
9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
10というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
11また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』」
12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
三番目の誘惑
今日の福音書はイエス様が荒野でですね、誘惑を受けられた。40日間断食をしながらというですね。この40日間にやはりちなんで私達はですね、この四旬節の間40日間祈りと節制に励み、そしてこの悪の働きを退けていく、そのようなことを心がけていこうということになっているわけです。
2番目の誘惑のときに悪魔が言うんですよね。「この国の国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それは私に任されていて、これと
【ミサ説教】ルカ福音書6章39-45節「おがくずから学ぶ」
ルカ福音書6章39-45節「おがくずから学ぶ」2025年3月2日年間第8主日ミサ六甲カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
おがくずが気になるのは自分の中に丸太があるせいでしょう 「おがくず」は自分の中にあるものに気づくよい機会かもしれません それは欠点だけではなく、美点である場合もあります美点に気づくというのは嬉しいな
ルカ福音書6章39-45節
39〔そのとき、イエスは弟子たちに〕たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
おがくずから学ぶ
今日も福音書ルカの6章ですか、イエス様の平地のですね、説教の一部分が朗読されました。盲人が盲人の道案内をすることができるだろうかと。目がですね、よく見えない者同士が2人で歩いていってもそれが上手くいかないでしょうというわけですね。
ここではその比喩で言ってるんだと思いますが、兄弟の目にあるおがくずが見えるのになぜ自分の目の中の丸太に気付かないのかという。
おがくずってね木を使って何かしたら出る粉クズようなもんですからそういう小さなものはもちろん相手の目を見てるからよく見えるわけですが、でもですね、自分の目の中に丸太があるっていうんですかね。1mか2mか、そんなでかい目に入ってたらば、大変ではありますけれど、でも逆に大きすぎてわかんないなっていうか、そういうものなんですね。
目っていってるけど自分の心というふうにもいいと思うんですがなかなか人間は難しい人のお
【ミサ説教】ヨハネ福音書9章1-15節「いやしのプロセスは未来志向
ヨハネ福音書9章1-15節「いやしのプロセスは未来志向」2025年2月24日年間いやしのミサ旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
いろいろな問題の原因は詰まるところ原罪にあるのでしょうか? 私たちは、ついこのように後ろ向きに考えてしまいます ですが、いやしのプロセスを通じて神のみ業は実現します 未来に成就する神のみ業のために今はあるのです福音朗読 ヨハネ福音書9章1-15節
1:ヨハネによる福音書/ 09章 01節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2:ヨハネによる福音書/ 09章 02節
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3:ヨハネによる福音書/ 09章 03節
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4:ヨハネによる福音書/ 09章 04節
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5:ヨハネによる福音書/ 09章 05節
わたしは、世にいる間、世の光である。」
6:ヨハネによる福音書/ 09章 06節
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7:ヨハネによる福音書/ 09章 07節
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8:ヨハネによる福音書/ 09章 08節
近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:ヨハネによる福音書/ 09章 09節
「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10:ヨハネによる福音書/ 09章 10節
そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
11:ヨハネによる福音書/ 09章 11節
彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12:ヨハネによる福音書/ 09章 12節
人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
13:ヨハネによる福音書/ 09章 13節
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
14:ヨハネによる福音書/ 09章 14節
イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
15:ヨハネによる福音書/ 09章 15節
そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
いやしのプロセスは未来志向
今朗読したのはヨハネの9章のですね、生まれつき目の見えないこの盲人をイエス様が癒される、目が見えるようになったというお話なんですが、非常に印象的なお話だというふうに思います。盲人がいてですね、弟子たちが何気なくか、深く考えてか尋ねたんですね。「ラビ」って先生という意味ですけどね、「先生、この人が生まれつき目が見えないのが見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」っていうふうに尋ねるわけですね。私達が病気だけじゃないですけど、いろんなですね欠点とか問題があったときに、やっぱりいろいろ考えるわけで、やっぱり原因は何なのかっていうふうに考えるのが、実際は普通のことではあると思いますよね。
特にこの両親が罪を犯したからって言うんですけど、でもやっぱりよくよく考えたら、やはり親の影響とか家庭の影響が大きいですからね。だから目が見えるか見えないかはあれだけど、性格的なこととか、いろんな問題はやはりどういう親に育ったかっていうのは、案外決定的かなっていうのは強く思ったりすることでありますよね。
今日の第1朗読がこれまた気分の重い話なんですけどアダムとエヴァが人類の最初だったんですよね。アダムとエヴァが結局、神様がするなっていう、食べたら駄目っていう善悪を知る木の実から食べちゃって、それで罪を犯したから神様に怒られて、エデンの園から追い出されたわけですよね。最初の人類がそうやって罪を犯して二人から生まれた2番目の人間が、カインとアベルだったんですけど、そのカインとアベルが兄弟喧嘩っていうか、兄弟ってなかなかまだ難しいところがあるから、結局これはめちゃめちゃですけど、何とカインがアベルを殺しちゃうっていう。兄弟殺しをするってですね、2番目の人類が兄弟殺してるんだから、どんだけかって、何か実際はやっぱ思いますよね。
結局カトリックはカトリックは、一応プロテスタントもそうだと思うんすけど原罪っていう、人間生まれてるときから罪があると言ってるわけですからね。なんで罪があるかって言ったら祖先が罪を犯したから、私達はもう罪の傾向があるっていうふうに、それは別の教えではそう言ってるわけですから、だからもうあんまりねやっぱなんか楽観的に物事をやっぱ考えられない。
だから私達が親の影響を受けるのは、マイナスのプラスのこともありあるけど、マイナスの影響を受けるのもしゃあないかなっていうかですね。どういうどういう親に育てられたとか、どういう家庭で育ったとか、それはやっぱ大きな影響がやっぱないとはちょっとやっぱり言い切れない、とはやっぱ思いますし、場合によってはなんで自分がこんなに苦しいのかっていうように言うときは、カウンセリングとかね受けてねそれで自分の子供時代をちゃんと振り返ってどうだったかっ
【ミサ説教】ルカ福音書6章27-38節「切る、割く、砕く神の愛」
ルカ福音書6章27-38節「切る、割く、砕く神の愛」2025年2月23日年間第7主日ミサ六甲カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
神の憐れみ深さは実際は人間を通じて現れます 神の恵みを「切り、割き、砕き」分かち合うとき神の憐れみ深さが現れるのです確かに言われてみると、そうだにゃあ
福音朗読 ルカ福音書6章27-38節
27〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
切る、割く、砕く神の愛
イエス様今日の福音書はルカの6章イエス様の平地での説教ですね、の中の一部分が朗読されました。やはりイエス様の考えは、やっぱりここが一番大事だと思うんですけども、あなたがたの父が憐れみ深