英隆一朗神父の福音お休み処

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【ミサ説教】ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」
03/20/2026

ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」2026年3月16日カマのミサ旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

ヨハネ4章の癒しは、離れた場所にいる人にもイエスの言葉が届くことを示しています。ここで問われているのは奇跡そのものではなく、その言葉を信じる信仰です。現実が厳しいと人は信じることが難しくなりますが、信じることは未来への希望を持つことでもあります。イザヤ書が語る新しい世界の約束のように、現実を認めつつもそれを超える神の愛を信じて歩むことが、私たちに生きる力を与えるのです。

本物の気功師さんに治療したもらいたいA次郎です

福音朗読  ヨハネ福音書 4章43-54節

(そのとき、イエスはサマリア)を出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

離れていても届くもの

今日の文章はヨハネの4章イエス様の癒しのお話ですが、このカファルナウムの王の役人というんですが、これと同じかどうか分からないですけれど、マタイのファッションに出てくる百人隊長のしもべの癒しとの話ではないかという説もありますけれども、ちょっと微妙に違っていて。そうである人とそうでないという人はいるのですが、まあ共通点は何かと言ったら、離れている人を癒しているってというんですかね、その場にいない人をイエス様は癒しているということなんですけど、イエス様の癒しのやり方はそれぞれで、いろんなやり方があるんですけれど。離れている人に対しても、イエス様は癒やすことができるというのもなかなかすごいなと思いますが。

日本の気功、気功師、本物の気功師というのは、実は離れていても癒せるんですよね。この気功で癒す人です。私の知り合いにもいるんですけど、一人ですね。びっくりしますけど、気功して地球の裏側に行っても癒されるんですよね。この気を飛ばして。気功師の本物か偽物かの区別は、やっぱり遠治療法の離れている人を癒せる人が大体、気功師としては本物って感じですかね。
ちょっとこのイエス様が遠くの人を癒されるのを見ると、私の知り合いの気功師のことを思い出しますけれども。

マタイの8章とヨハネの4章で、他のところもそうですが、つながっているのは何かといったらですね、やっぱ


【ミサ説教】ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」
03/15/2026

ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」2026年3月15日四旬節第4主日ミサ防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

ヨハネ福音書9章の生まれつき目の見えない人の癒しは、単なる奇跡の物語ではありません。人々は不幸の原因を過去の罪に求めようとしますが、イエスはそこから神の業が現れる未来へ目を向けさせます。盲人は癒された後、共同体から追い出されるという困難を経験します。その後の過程の中で再びイエスと出会い、信仰の目が開かれたのです。癒しと救いは一度きりの出来事ではなく、長いプロセスの中で深まります。神の業は目立つ奇跡だけでなく、人と人とのつながりの中に静かに現れていくのです。

東日本大震災から15年。釜石教会でのお茶っこサロンも15年も続いているんですね。

福音朗読 ヨハネ福音書9章1-41節

 1〔そのとき、〕イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
 13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目


【ミサ説教】ヨハネ福音書4章5-42節「心の穴」
03/08/2026

ヨハネ福音書4章5-42節「心の穴」2026年3月8日四旬節第3主日ミサ防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

ヨハネ福音書のサマリアの女の物語は、人の心の渇きを示しています。彼女は多くの男性との関係の中で満たされない心の穴を抱えていたが、イエスとの出会いによって「生きた水」を知りました。人は誰でも心に穴を持ち、それを愛や仕事、酒など様々なもので埋めようとするが本当には満たされません。山頭火の生き方もその一例といえます。イエスが与える生きた水、すなわち聖霊の恵みと真実に生きる道によってこそ、心の穴は塞がれ、渇きは満たされるのではないでしょうか。

今回も山頭火のお話の続きがあるにゃ

福音朗読 ヨハネ福音書4章5-42節

5〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「


【ミサ説教】マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」
03/01/2026

マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」2026年3月1日四旬節第2主日ミサ防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

四旬節第2主日に朗読される主の変容は、十字架前に弟子たちへ復活の希望を示す出来事です。ペトロは仮小屋を建てようとしますが、父なる神は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と告げます。大切なのは記念や形ではなく、キリストの生きた言葉に耳を傾けること。騒がしい現代社会の中でこそ、教会と祈りを通して神の声を聞き、洗礼を受ける人も周囲も信仰を深めていくよう招かれています。

神父さんが山頭火が好きだなんて初耳だっったにゃ。(ラーメン屋さんに「山頭火」という店が多いのはなぜだろう)

福音朗読 マタイ福音書17章1-9節

 1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
 9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

神の声に耳を澄まそう

四旬節の第2主日は毎年必ずそうなんですが、主の変容のところを必ず朗読することになっています。イエスは3人の弟子だけを連れて、高い山、タボル山かヘルム山かどっちかと言われていますけど、そこに登った時に、イエス様が生きている間にちょっとだけ神様の姿を現すというんですかね、特別にいつも普通の人間に、人間として生きている時は過ごしておられましたが、この時だけは特別に神様の次元を特別に示されるんですよね。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そして、旧約の預言者とお話をするとですね、ちょっと神秘的な姿を垣間見せた。これは多分、やはりイエス様が十字架にかかって苦しまれる時に、弟子たちが希望を失わないように、あらかじめ復活したイエス様の姿をあらかじめ見せられたのではないかというふうに思えます。

でも、それに対してペトロは、だいたいそれを見た3人とも、あまりの光景でちょっと驚いてしまって、どうすればいいか分からなくて、ペトロは仮小屋を3つたてましょうと。あなたのためモーセのため、エリアのため、何かちょっと祈る場所というか、記念すべき所を作ったらどうですか?みたいな感じで言うわけですよね。何かやっぱりちょっと特別なことがあったら、何か形にして残しておかないともったいないとペトロが思ったのかもしれない。でも、その後、雲が現れて見えなくなって、父なる神様の声がして、イエス様はですね、イエス様のことを神様の愛する子であって、心にかな


【ミサ説教】マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」
02/20/2026

マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」2026年2月16日カマのミサ旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

人は神のしるしを求めますが、大切なのはそれをどう受け止めるかです。奇跡だけでなく、喜びも試練もまた神からのしるしです。ヤコブの手紙は、試練を喜びとし、貧しさも富も信仰を深める機会だと語ります。恵みは与えられていても、受け取る心がなければ実りません。日々の出来事を神のしるしとして受け止め、成長の糧にする姿勢が求められています。

宝くじ、買おうと思っていたけど・・・

福音朗読  マルコ福音書 8章11-13節

(そのとき、)ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

しるしをどう受け止めるか

今日のイエス様のお話は、しるしというユダヤ人は特に神様からのしるしをしるしというのは、何か奇跡的な何か出来事みたいなことですけど、そういうものを求める、そのような体質というものがあったような感じですね。一番大きなしるしは、このユダヤ人のもっとまた前の話ですけど、エジプトで奴隷状態になっているところからモーセという預言者の導きによって約10ぐらいには渡る様々なしるしというんですかね、いろいろあって、それでエジプトから解放されたということがあって、そこから非常にしるしを大事にしていたということはあるんですけれども、ただ、ここでですね、このファリサイ派の人々って、イエス様と対立する人々ですけど、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めたっていうから、何かちょっとしるしの求め方がおかしいっていうか、それでイエス様がしるしを与えられないと、今の時代の人々にはあったことをはっきり言うわけですね。

だから、イエス様、実はこの読んだのがマルコの11章なんですけど、この前の話かなにかと言ったら、4000人の人にイエス様が7つのパンを裂いて渡して、みんなが満腹したって、まさしくそれは大きなしるしなわけで、イエス様は大きなしるしを実際行っているわけですけれど、でも結局、しるしをどう受け止めるのかという、この人間の心っていうか、それが結局、信仰ということになるんですけれど、神様のしるしがあって、それを私たちがそこを通して神を信じて、そこから何かこう何かこう恵みを得て成長していこうとするかっていうしるし、プラスそれを受け取る側の人間の態度と両方がやはり合わないと、実際ダメなんですよね。

ここで村の人々がしるしを求めていたら、何かイエスにケチつけるために、イエス様のやっていること、今でも本当かどうかわからないですけど、いろんな奇跡的なことをやる人がいたら、だいたいみんなインチキだとか手品だとかいう、まあそれはそれを信じるか信じないかで全然話が違いますけれども、いろんな時々は新興宗教の教祖みたいな人ってのはびっくりするぐらいなことする人、時々いないでもないんですよね。特にインド系のね。なんかの人は。だいたいそれはなんか結局ネットがネットか何かで流れたらインチキだとか嘘だとか、それをどう受け取るかあったことの問題になるわけですよね。


【ミサ説教】マタイ福音書5章17-37節「律法の完成とは」
02/15/2026

マタイ福音書5章17-37節「律法の完成とは」2026年2月15日年間第6主日防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

イエスは律法を廃止するのではなく「完成する」と語りました。それは細則を守ること以上に、律法の根本にある愛を満たして生きることを意味すします。法律や習慣を盾に人を裁くのではなく、神と人を愛する心で日々の小さな行いを丁寧に行うこと。森のイスキアの、故佐藤初女さんの実践のように、食事を作り、話を聴くという平凡な営みを心を込めて行う時、律法は本当に完成するのだと思います。

初めさんのおにぎりは美味しそうだったなあ。

福音朗読 マタイ福音書5章17-37節

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
 《17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》
 20 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
 21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」
 《「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」》
 27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
 《29 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》
 33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」
 《「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足


【ミサ説教】マタイ福音書5章13-16節「暗闇をあまねく照らす光」
02/08/2026

マタイ福音書5章13-16節「暗闇をあまねく照らす光」2026年2月8日年間第5主日防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

イエスは、弟子であるあなた方“そのもの”が光だと告げています。物や制度(麦わら)をいくら積んでも心は満たされません。必要なのは暗闇を消す光。政治や経済には限界がありますが、私たちには神の光で心を満たし、小さな灯でも周囲を照らし分かち合っていきましょう。

今日の王様のお話は初めて聞いたにゃー

福音朗読 マタイ福音書5章13-16節

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

暗闇をあまねく照らす光

今日は山上の説教の8つの幸いの続きです。最初の最初の頃ですけれども、あなた方というのは弟子たちですけれども、世の光である地の塩であるというふうに言うわけですけれども、それを私たちも何か心がけたいと思います。
当時はですね、やはり塩というのは非常に貴重なものでした。
日本みたいに海から取るのではなくて、岩塩というか、土の中からいうかですね、非常に貴重なものでしたし、光もやはり今みたいにどこでも電気が通っているわけではなかったので、塩にしろ光にしろ、非常に貴重な、しかも大切な、そのようなものであるということを私たちに呼びかけているわけですね。

ちょっとお話をすると、昔、昔のある国に非常に立派な王様がいて、そしてその国を治めていたんですね。だんだん年をとってきて。息子が二人いて、長男と次男と二人いてね、そのどちらかに自分の後を継がせたいというふうに思ったんですけど、そのお兄さんも弟も両方とも立派で甲乙つけがたいような息子だったんですよね。
ある朝、大広間にその二人とそれで他の家臣たちですよね、家来たちをみんな集めて。それでこの二人の王子にですね、こう言ったんですね。
日が暮れるまでに一人一人にどうか10枚ずつを与えるから、それを使って、もし使わなくても。それでこの広間をですね、何でもいいから、王様の宮殿だから、大きい広間があって、広間をいっぱいにしなさいと。
その何かを手に入れてきて、それでそれを見て、そのいっぱいにできるかどうかというところを見てですね、どちらに継がせるか、王位を継がせるか決めると言って、それで二人の王子が外に出て行ったんですけど、お兄さんの方はまあ町や村をちょっと歩きながらちょうどですね、麦を収穫する時だったんですね。小麦とか大麦を収穫する時。で。それでまあ農業をやっている人たちが働いているのを見てですね、それで麦は取れば茎のところはいらないわけですよね。で、脱穀をしていて、それでこの茎がいっぱい麦わらと茎がいっぱいあって、それでそれを見て王子が農業をやっている人に麦を取ったその茎の方ですよね。麦わらの方をくれないかと。当時はまだ


マタイ福音書5章1-12a節「前を向いて歩く幸い」
02/01/2026

マタイ福音書5章1-12a節「前を向いて歩く幸い」2026年2月1日年間第4主日防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

イエスの「心の貧しい人は幸いである」とは、満たされた者ではなく、不安や病、行き詰まりを抱え、必死に救いを求める人々への慰めの言葉です。心の貧しさとは心細さそのもので、そこにこそ神の力と愛が働く余地があるのです。弱さや欠けの中で神は人を支え、「前に進む」力を与えるのではないでしょうか。

「心が貧しい」は「心細い」こと。「幸い」は「前を向いて歩く」こと。

福音朗読 マタイ福音書5章1-12a節

 1〔そのとき、〕イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
 3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12a喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

前を向いて歩く幸い

今日の福音は、マタイの保障、この山上の説教、山上の説教の一番最初のところにあたりますけれども、8つの幸いと言って、ある意味かなり有名なところであろうと思います。特に最初の冒頭のところですね、心の貧しい人々は幸いであるというよく分からないところから。この8つの幸いが始まるんですが、およそ私たちの考える幸いとか、幸福と、やっぱりイエスさまの考えている幸いと幸せと、やっぱり大きく違うなというかですね、それはびっくりするぐらい何か違うような気がします。

心の貧しい人々は幸いであるというんですけれど、普通そう考えないですよね。
心の豊かな人が幸いと言うのが、私たちの考える当たり前のことで、まあ、ぼろは来てても心は錦とか、持っているものは貧しかったとしても、心が豊かであれば人間は幸せであるという考えるわけですよね。それが普通なんですけど、心の貧しい人は幸いって言うんだから「ええっ?」て言うか、何でかと疑う気持ちが湧いてきても当然だと思いますけれども。

実際のところ、ここに集まってきた人々はどういう人々かといったらですね、その時イエスは群衆を見て、山に登られた、群衆というのは何かと言ったら、この今日の朗読の4章の終わりにあるんですけれど、イエス様の癒しの業とか、イエス様のこの華々しい活動を見聞きてっていうか、話を聞いた人々が、この、イスラエル中からって書いてあるんですけど、デカポリスとかエルサレムとか、全然遠いところから多くの人々がイエス様に集まってきたんですよ。だから群衆になってて。
カファルナウムのシナゴーグ会堂というのは、これとほぼ同じかな。大きさとして、これよりちょっと広いぐらいも


【ミサ説教】マタイ福音書4章12-23節「従った理由」
01/25/2026

マタイ福音書4章12-23節「従った理由」2026年1月25日年間第3主日防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

無名のイエスに最初の弟子たちが網や舟を捨てて従ったのはなぜでしょう。彼らは闇の只中で「大きな光」を感じたからです。現代も人は不安や空虚の中で擬似的な光(推し活や流行)に引き寄せられますが、真の救いにはならないでしょう。聖イグナチオが世俗的栄光から回心したように、イエスこそ消えない喜びを与える光です。その光を見分け、日常で生きる力とし、分かち合うことが求められているのではないでしょうか。

『The Chosen – 選ばれし者』の動画は、今でも動画配信しているサブスクリクションで見られるようですね。

福音朗読 マタイ福音書4章12-23節

12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 15「ゼブルンの地とナフタリの地、
   湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
 16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20二人はすぐに網を捨てて従った。21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
 23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

従った理由

今日の福音書は、ヨハネの4章の真ん中あたりですけれども、とうとうイエス様がこの福音宣教というか、メシアとして活動を始めるところのところが朗読されました。

イエス様が悔い改めよ、天の国は近づいたと、カファルナウムの町で宣言して、そして最初にした彼の活動は何かといったら、弟子を選ぶというですね、今日は4人の弟子を選ばれるわけですけれども、ちょっとここを読んで、何て言うんですかね、このイエス様も、まあ、何でこの4人を選んだのかということを疑問がありますが、でもこの4人の、若かったか中年だったか、ペトロはもう中年だっただろうと思われますけれども、兄弟ヨハネの方は、まあちょっと若かったかもしれないですけど、イエス様に呼ばれて網を捨てたりとか、舟と父親を残してイエスに従ったという、どうもちょっとびっくり、びっくりなんですよね。

イエス様が有名だったら、それは従って行こうと思うかもしれないですけれど、まあ、活動を始めたばかりの全く無名の人だったわけで、イエス様は。突然私に従えと言って、普通はちょっと従えないんじゃないかと思いますけれども、この弟子たちは何を思って従ったのかというのは、実はちょっと謎ではあります


【ミサ説教】マルコ福音書 2章18-22節「新しいぶどう酒を受け止める」
01/21/2026

マルコ福音書 2章18-22節「新しいぶどう酒を受け止める」2026年1月19日カマのミサ 旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

イエスの「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、古い慣習や安心にしがみつく人間の姿を突きます。人は慣性で生き、変化を嫌うが、福音は常に人を揺さぶり、変わるよう迫ります。新しさは異質な出会いや出来事から来るのではないでしょうか。障害者への合理的配慮や釜ヶ崎での体験は、視点を変え、人を新たにする恵みの場です。古い袋に固執せず、新しい革袋として生き直せるかが問われています。

「いやしのミサ」は「カマのために祈るミサ」になりました

福音書朗読 マルコ福音書 2章18-22節

(そのとき、)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

新しいぶどう酒を受け止める

今日はマルコの福音書のイエス様の説教のところですけれども、この新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる、入れなさいという有名な言葉なのですが、この頃はまだガラス瓶がなかったので、プラスチックももちろんないですし、ガラスもない時代ですから。だから、ぶどう酒は樽に入れるか、樽に入れて運ぶのものですから、運ぶ際には革袋に入れて運んでいたわけですね。なかなか日本じゃほとんど見ないですけれど、スペインなんかに行ったら、ちょっと前までぐらいは使っていたんじゃないかと思うのですが、しかし、革袋もだんだん古くなってきてね。そうすると、新しいぶどう酒を入れたら革袋が破れてしまうようなことがどうもあったみたいですね。
だから、古いぶどう酒ならば、古い革袋に入れることができたわけですけれど、新しいぶどう酒を作ったら、やっぱり新しい革袋に入れなきゃならないという、そういう習慣があったみたいですよね。

新しいぶどう酒と新しい革袋、古いぶどう酒と古い革袋ということですけれども、結局どういうことか。
この新しい革袋と新しいぶどう酒というのは、イエス様が述べた新しい教え、福音的なものであって、この古いぶどう酒と古い袋というのは、旧約時代の、ここで言ったらファリサイ派の人々とか律法学者の人たちの世界を表しているように思いますね。

でも、なかなかこの、何というんですか、つくづく思いますけれど、人間には、人間には慣性の法則があるんですよね。何か繰り返して知ったことが身についているというか。だから、今までどおりにやるのがみんな一番楽いうか、一番心地がいいというのかな。
だから古いものを、だからだいたいあんまり変わるのが良くないというか、変わることがあんまりみんな好みではな


【ミサ説教】マタイ福音書3章13-17節「天が開くとき」
01/11/2026

マタイ福音書3章13-17節「天が開くとき」2026年1月11日主の洗礼のミサ 防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受けた時、天が開き、神の愛と聖霊が注がれた。これは神と人間を隔てる壁が開かれ、私たちも神の子として愛されていることを悟る恵みが始まった出来事と言えるでしょう。悩みや執着に囚われると心は閉じてしまいますが、神の温かさに心を向ければ自然と殻は開くでしょう。

北風と太陽のお話は神父様の定番。とてもわかりやすい例だよね。

福音朗読 マタイ福音書3章13-17節

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

天が開くとき

今日の福音書は、イエス様が洗礼を受けられた。今の私たちの洗礼ではなくて、洗礼者ヨハネの洗礼を受けられて、ヨルダン川の川に、あまり大きな川ではないですが、そこに浸礼と言って頭からザブンとなるような、そういう洗礼を、体全体を水に浸すような感じで、それは当時の人がそのようにされていたわけですけれども、その後にイエス様だけ特別に、ここから不思議なんですが、天が開いた。
天がイエスに向かって開いたと書いてあるわけで、天が開くというのがちょうど私たち空を見ていても、別に空の向こうに何にもないというか、別に空は宇宙につながっているだけで、別に何か閉じているということは実際にないわけなんですけど、でも古代の人は天は閉じていて、天のこっち側が人間と自然の世界で、天の閉じている向こう側が神様の世界と分かれていると考えていたから、その影響でこのような表現になったのでしょうと思われます。

けれども、イエス様が洗礼を受けた時に、この天というか、神様と人間を隔てているからというか、壁というか、それが神ひらいて、そしてイエス様の上に、この聖霊の恵みと愛する神であるという御父の声がしたということですね。

これは非常に意義深いことだと思いますけれども、イエス様はこの洗礼を通して、神と人間とを隔てている壁が開いたというかですね、私たちも天が開いている、つまり神様と私たちが交わりの中で生きていくことができる。その恵みをイエス様が開いてくださった。開いたらどうなるかといったら、神の愛がイエス様に注がれていて、愛する子である神様の愛し方であるということをイエスが悟った。
結局、私たちもイエス様の洗礼の以降、私たちも開いて、神様に開いて、そして神様から愛されている神の子であるということを、私たち一人一人が悟ることができる。
その恵みが与えられていると言えると思いますね。

ただ、私たちは神様のことをつい忘れがちですから。
天が閉じ


【ミサ説教】マタイ福音書2章1-12節「夜に星を見、昼に歩く」
01/04/2026

マタイ福音書2章1-12節「夜に星を見、昼に歩く」2026年1月4日主の公現のミサ 防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

東方の三博士は星に導かれながら、世間の常識に引きずられて一度は間違ってしまいました。星は夜にしか見えず、行動できるのは昼という時間差が迷いを生むのです。信仰で最も大事なのは、夜に星(神の導き)を見出すこと、次にそれを昼の現実で実行すること。多くの人が星を見ても歩かない中、博士たちは歩き、幼子イエスに出会い、生き方を変え、世俗ではない「別の道」を選びました。信仰とは、見て、歩くことの両立でしょう。

東方の博士には、どんな背景があったのでしょうか

福音朗読 マタイ福音書2章1-12節

 1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 6『ユダの地、ベツレヘムよ、
  お前はユダの指導者たちの中で
  決していちばん小さいものではない。
  お前から指導者が現れ、
  わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

夜に星を見、昼に歩く

この公現の祝日には、東方の三博士のところが必ず朗読されます。東方の三博士、彼らが異邦人の代表としてイエス様のところに拝みに行って、そして救い主イエスと出会うことができた。それを今日のこの祝日はお祝いしているわけですけれども、イエス様の誕生の場面でいろいろな人が登場しますが、私が一番不思議というか、なんというか、考えさせられるのが、この東方の三博士ですね。
この東方と言うから、ペルシャかバビロニアか、いわゆるアラブ人の地方で、まだイスラム教が流行る前ですから、ゾロアスター教かはちょっとわからない宗教の人たちだったと思うのですが、何で星でわかったのかということがちょっとびっくりですけれどもですね。

今はちょっと明かりを灯すようになっちゃったから、あんまり星が見えないんですけど、昔は夜になったら真っ暗でしたから、満天の星をみんな眺めていたわけですが、その満天の星の中でメシアが生まれたしるしの星というのを見分けられたということが、まずちょっと不思議というか。当時の人々はやっぱり今のよ


【ミサ説教】ルカ福音書2章16-21節「おそれを超えて信じる心」
01/01/2026

ルカ福音書2章16-21節「おそれを超えて信じる心」2026年1月1日神の母聖マリアのミサ 防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

マリア様は出来事をすぐ理解せずとも、すべてを心に納め思い巡らした。その姿勢こそ平和の出発点である。現代の分断や戦争の根には恐れと不安があり、右派と左派でも恐れの対象が異なる。自分と他者の心の奥にある恐れを見つめ、その恐れを超えていくには、神様に対するもっと深い信頼が必要なのです。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

福音朗読  ルカ福音書 2章16-21節

(そのとき、羊飼いたちは)急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、(彼らは、)この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

おそれを超えて信じる心

今日は神の母聖マリアの大祝日に当たっています。このイエス様が誕生した直後に、天使たちは天使に導かれた羊飼いたちが礼拝に来て、そしてそこにいた人々は羊飼いたちの話を聞いてね。それは天使が現れて導かれた、そういう話だったと思いますけれども、それを非常に不思議に思ったというふうに記しています。

みんなはただ不思議に思っただけで、それ以上深く考えなかったかもしれないですけれども、小さな幼子ですし、その子がどうなるとか、あまり深く考えなかったと思うのですが、しかし、しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心におさめて思いめぐらしていたというふうに書かれていますね。
マリア様だけがたぶんこの出来事、あるいは羊飼いたちの話を心におさめて、それを思い巡らしていたということですよね。
やはり大事なのは、私たちは心が大事というかですね、私たちの様々な出来事や何かがあった時に、どのように自分の心にそれを納めて、その心の中に実際どういうものがあるのかということをよく見つめるというのがですね、すぐ思い巡らすというふうにありますから、マリア様ももうすぐ何か分かったとか、答えが出せたとか、そういうわけではなかったでしょうけれども、自分の心にあるものをしっかり受け止めておられたということですね。

今日は世界平和を祈る日ですけれども、私たちがやはり本当の意味でこの平和を築いていこうとする時にですね、やはりこのマリア様のように、心の中に何があるのかということ、それをしっかり私たちは見つめていく必要性がやはり一番あるんじゃないかなと思います。

というのは。戦後今年81年になるんですけれども、やはり平和がどんどんなくなっているということは間違いないでしょう。世界レベルでの戦争も終結していないわけですし、ウクライナのこととまあ、ガザのこともちょっと落ち着いていますけれども、実際ちょっとどうなるか分からない感じですが、あるいはやはり私たち人々の間の中でも、やはり分裂というか、政治的なことを考えても対立がいろいろ進んだりしているわけですよね。

どこ


【ミサ説教】マタイ福音書2章13-15節、19-23節「辛い時にこそ共に歩む」
12/28/2025

マタイ福音書2章13-15節、19-23節「辛い時にこそ共に歩む」2025年12月28日聖家族のミサ 防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

聖家族が幼子イエスを連れてエジプトへ逃れた出来事は、政治的迫害下の難民として生きる過酷な出発点でした。言葉も縁もない地で、マリアとヨセフは必死に協力し、信仰と愛によって家族の絆を深めた。危機は家族を分断も結束もさせるが、聖家族は共に歩む模範を示しました。現代の災害や不安定な社会においても、家族や共同体と支え合い、信仰をもって歩んでいきましょう。

皆様今年もありがとうございました。次は新年のミサです。

福音朗読 マタイ福音書2章13-15節、19-23節

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

辛い時にこそ共に歩む

聖家族の祝日に読まれるのがこのマリアとヨセフ、幼子イエス様がエジプトに逃げたというか、避難したというか、そういうエピソードです。この3人がエジプトに逃げたという、何というんですかね、どんな生活をしていたかってことを考えると、ちょっと胸が締め付けられるような気持ちにもなりますけれども、マリアにしたら、生まれたての赤ん坊を連れて外国に逃亡しなきゃならないという。ヨセフにしてみても、全く知らないところで、外国で言葉も通じないところを突然家族で行かなきゃならなかったというのは、その苦労たるやどんなものだったのか。現代でいうところの難民みたいな、実際の難民ですけれど、政治難民ですから。
一時シリアからたくさんの人が逃げたりですね。残念ながら今のガザは封鎖されているから、難民にもなれないという大きな苦しみがありますけれども、でも、この若い夫婦が小さな子どもを連れて海外に行かなきゃならない。どれほどの苦労の中でイエスさまを育てなきゃならなかったのかという、ちょっと想像を絶しているところがあるんじゃないかというふうに思います。

幸いなのは、ヨセフは大工でしたから、文系の仕事だったら言葉が通じないからできないんですけれど、職人だったので、ある程度落ち着いてからはある程度の収入を得る仕事に就けたであろうと思いますが、ただ、エジプトに多分ユダヤ人のコミュニティーは確かにあったと思うんですが、そこに入れたかどうかがわからない。
つまり、ヘロデから暗


【ミサ説教】ルカ福音書2章1-14節「小さなわたしの捧げもの」
12/25/2025

ルカ福音書2章1-14節「小さなわたしの捧げもの」2025年12月24日主の降誕夜半のミサ カトリック防府教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

イエスは馬小屋で、飼い葉桶に寝かされて生まれました。宿に泊まれず、寒さや食べ物に困る状況だったため、野宿の備えを持つ羊飼いたちが天使に招かれたのでしょう。彼らは毛布や食べ物を分け与え、聖家族を助けました。クリスマスとは、困っている人のしるしに気づき、自分の小さな持ち物や親切を差し出す心を大切にすることではないでしょうか。

子どもたちがたくさん参加しているミサです

福音朗読  ルカ福音書2章1-14節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

小さなわたしの捧げもの

せっかくですから、今日は子供たちがいっぱい来ているので、子供たち向けにお話をしましょ。イエス様がどこで誕生したのか、どこで誕生しましたか。馬小屋、馬小屋、ここに馬小屋があるでしょう。イエス様が寝ていたのはどこでどういうところに?
飼い葉桶で寝てたんだよね。これはちょっと飼い葉桶じゃないけど、あれがキラキラしてきれいに飾っているけど、これ飼い葉桶じゃないんですよね。ちょっとイエス様に尊敬の気持ちを持ってこうしているんですけど、解剖家って何なんですか。
飼い葉桶って。

そうそうそう。飼い葉桶っていうのはバケツなんですよね。バケツで餌を入れて、動物が食べる。家畜が食べる餌、干し草だと思いますけど、入れているバケツなんですよ。これ、どう見てもバケツじゃないけど、本当はバケツなんです。バケツの中にイエス様が寝ていたって言うんですよね。

それで誰がそこに招かれたか、誰がこのイエス様を拝みに招かれた?
朗読であったでしょう。今、誰が、誰たちが招かれたの?この時。

そうそうそう。羊飼いだよね。聖劇をやったでしょう。幼稚園でね。羊飼いたちが招かれたんです。
ちょっとよく見えないかな。後ろの方に羊飼いたちがいるんですけど。

じゃあ質問なんですが、何で羊飼いが招かれたか。

天使が、天使が出てきて来なさいって言


【ミサ説教】マタイ福音書21章23-27節「イエスの権威とは」
12/18/2025

マタイ福音書21章23-27節「イエスの権威とは」2025年12月15日ミサ旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

イエスの権威は学歴・資格・地位といった人間の肩書ではなく、神から直接来るものだった。だから弱い者を癒し、助け、赦す力として働いた。一方、人間の権威は金と力で社会を動かし、常に弱者を犠牲にする。釜ヶ崎では行政主導の再開発や資金流用が進み、貧しい人が切り捨てられつつある。今こそ人の権威ではなく神の権威に立ち、神の国が現実に働くよう祈り行動できるよう恵を願いましょう。

これからは「いやしのミサ」ではなく、「カマのミサ」として、釜ヶ崎のために祈るミサとなります。

福音朗読  マタイ福音書 21章23-27節

(そのとき、)イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

イエスの権威とは

イエス様の活動、言葉、それに対して宰相や民の長老、いわばイエス様に敵対している勢力というか何かが、何の権威でこうやっているのか、誰がその権威を与えたのかということを問うわけですけれど、結局、イエス様というのはこの世の権威がなかったんですね。これの権威でないかと言ったら、学歴ですよね。いい大学を出たとか、あるいは何かいい仕事をしているとか、良い資格を持っているかですね、何とかかんとか、いろいろそういう、でもイエスさんは全く資格がないんですよね。

神父じゃないとか、祭司じゃない、職業的な、いわゆる宗教家じゃないんですよ。神父さんだったら。一応それは資格というかもう神学校で勉強して、司教さんにされてなっている資格があるわけですけど、イエス様は普通のカトリック用語で言ったら平信徒なんですよね。

有名なラビについて何か勉強しましたってこともないんですよ。お金もないし、地位もないし、実は何にもないんだけれども、人々がそこに集まっていて、イエスの話を聞いた。それは、イエス様の権威というのは、神から来ているからしかあり得ないですよね。

人からの権威というのは、そうやって資格とか何か肩書とか何とか、この人は弁護士だなとかと言ったらそれでいいのか、あるいはあれがあるし、大学の先生だってそれなりのあれですけど、イエス様は全く何にも何もない。それはもう神の権威でしかないわけですけど、でもやはり多くの場合、この私たちは神の権威をなかなか認めないで、結局人の権威ばかり認めているという、人の権威あるところに、権力ももちろんありますから、お金があって経済とか政治を動かすのは、だいたい権威がある人しか動かせないわけですけどね。

だけど、主イエス様は全く違う神の権威で生き


【ミサ説教】マタイ福音書11章2-11節「神の恵みを思い起こそう」
12/15/2025

マタイ福音書11章2-11節「神の恵みを思い起こそう」2025年12月14日待降節第3主日ミサ カトリック防符教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

洗礼者ヨハネはメシア到来の準備のため遣わされたが、投獄され不安の中でイエスに問いを送った。信仰者も疑いや戸惑いを抱くことは自然であり、大切なのは神の恵みを「見聞きし、思い起こす」こと。人間的立派さより、恵みの世界に生きる幼子のような素直な信仰が神の国にふさわしいのです。

洗礼者ヨハネにも「疑い」があったんだろうか?

福音朗読 マタイ福音書11章2-11節

2[そのとき、]ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6わたしにつまずかない人は幸いである。」
 7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
 10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
   あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

神の恵みを思い起こそう

待降節の第3主日でも、大体この洗礼者ヨハネのお話が続けて読まれることが定番になっています。ヨハネが今度は牢の中に入るお話ですね。洗礼者ヨハネは、今日の福音書にあるとおり、準備するですね。メシアが来る前の準備として遣わされていた預言者以上の者であったわけですけれども、預言者はですね、結局、神様から聞いた言葉を人々に伝えなきゃならない。一般庶民の人にもそうですけれども、やはり権力者に対して間違っているのは間違っていると言いに行かなきゃならないんですね。だから、ヘロデ王に対して結婚が間違っているとわざわざ言いに行ったので、それで結局、怒りを買って牢獄に入れられてしまったわけですね。
イエス様に洗礼を授けたけれども、結局、イエス様の活動を彼は見ることができなかったわけですね。マタイの福音書では、ヨハネが逮捕された後、イエス様が活動を始めるということになっているので、入れ替わりになるわけですね。牢獄の中で、弟子たちを送って、イエス様のところに質問に来るわけですが。イエス様に洗礼された時に、イエス様のことをメシアだとある程度思ったと思われますけれども、ヨハネの福音書によると、見よ神の子羊だ、とか言ってですね、ちゃんと信仰告白をしているように見えますが、でも、イエス様の活動を、公の活動を何一つ見ていないので、やはり不安というか、何か心配なことが彼の中にある戸惑いが湧いてきて、そしてイエス様のところに弟子を送って確かめさせるということをしたと思うんで


【ミサ説教】マタイ福音書3章1-12節「荒れ野で生き方を立て直す」
12/07/2025

マタイ福音書3章1-12節「荒れ野で生き方を立て直す」2025年12月7日待降節第2主日ミサ カトリック防符教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

私たちは忙しさに追われて心が乱れると、「荒れ野」に放り出される。でもそこで生き方を見直すと、まっすぐな生き方が見出せるでしょう。「荒れ野」は自分を整えるチャンスです。

お話の中の神父さんは故三浦功神父さんにゃ。

福音朗読 マタイ福音書3章1-12節

 1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
 4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

荒れ野で生き方を立て直す

待降節の今日は第2主日になりますけれども、第2主日は伝統的に洗礼者ヨハネの活躍というか、言動のところが読まれるということに毎年なっています。今年はマタイの洗礼者ヨハネの箇所ですけれども、彼の役割は、イエス様の救いの前にそれを準備する役割があったのですけれども、彼は典型的な旧約からの預言者で、大体住んでいるところが荒れ野というですね、普通はみんな町の中に住んでいるわけですけれども、預言者は特別な使命があるから荒れ野といって、およそ人が住めないような荒廃したところでワイルドなんですよね。この、ラクダの毛衣をきて、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていたというから、相当ワイルドな感じですけれども、彼がそこにいて、そしてやはり悔い改めですよね。罪を悔い改めて、清めのための洗礼を授けていた。だから町にいる人々も多く、わざわざ歩いて荒れ野まで行って、荒れ野と言ってもヨルダン川の流れているところだから、お水があるのでそこで洗礼を授けていたというわけですね。

多くの人がそこに来たということは非常に不思議な気がします。やっぱり当時の人は何らか自分の中でもやもやしているものがあって、それでやはり洗礼者ヨハネのところにわざわざ荒れ野まで歩いて行って、そこで何か清めのものを清めてもらうような気持ちが、何か心を引き締めるためにそういうことが必要だったのかもしれないですね。

私たちはクリスマスの前に


【ミサ説教】マタイ福音書24章37-44節「最悪を想定し、最善を尽くせ」
11/30/2025

マタイ福音書24章37-44節「最悪を想定し、最善を尽くせ」2025年11月30日待降節第1主日ミサ カトリック防符教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

目を覚ましているとは「最悪を想定し、最善を尽くせ」ということでしょう。私たちの人生にとって本当の最悪は多くは「死」であるかもしれません。いつ死が訪れてもいいように備えながら、一番最高のもの、神の恵みを受け止めていけるように待降節を過ごしていきたいものです。

もとの言葉は”I am prepared for the worst, but hope for the best.”

福音朗読 マタイ福音書24章37-44節

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕37「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

最悪を想定し、最善を尽くせ

今日が待降節の第1主日で、イエス様の誕生の準備が始まる主日です。この待降節の第1主日というのは、イエス様の誕生よりもむしろイエス様の再臨ですね。世の終わりにイエス様がもう一度この世界に来られるというですね、11月の死者の月の流れで、世の終わりとイエス様の再臨のところがだいたい朗読されるように決まっています。

そして今日はマタイの24章ですが、まさしくそのような箇所だったわけですね。あなたがたも用意してみなさいと。人の子は思いがけない時に来るからであるというふうにイエス様が言っておられます。やはり突然イエス様が来られるので、ちゃんと準備をしているように特に目を覚ましていなさいとか、用意していなさいということをイエス様は言われるわけですね。

世の終わりには様々な混乱や、今もその予兆かどうか分からないですけれども、地震とか戦争とか疫病とか、あるいはキリスト教に対する迫害とか、そのようなことが非常に厳しいことが起きると、その果てにイエス様が天から来られるという、そのことを語っていて、だからこそ目を覚ましていなさい、準備していなさいということを言うわけですね。

でも、具体的には、私たちは目を覚ましているとか、準備するとかですね、それは具体的にどういうことを意味しているのかということですよね。目を覚ましていなさいと言っても、やっぱり夜はちゃんと寝なきゃならないし、なんて言うんですか、このいつも気を張っているわけにもいかないわけですけれども、この準備をしておくということのもっと具体的なことは何かと言えばですね、これが分かりやすいんじゃないかと思うのですが、日本語のことわざにも、ことわざまでなっていないですけど、こういう言


【ミサ説教】ルカ福音書23章35-43節「王の力」
11/24/2025

ルカ福音書23章35-43節「王の力」2025年11月23日王であるキリスト カトリック防符教会ミサ

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

真の王、キリストの力、私たちの魂の中に王の力が働くと、自分自身に秩序が生まれ、自分自身から力が湧いて豊かになります。そして本当の王が生まれるためには一度王は死ななければならない。自分自身の人生で、イエスの死と復活に与ることが信仰生活で最も大切なことではないでしょうか。

英神父さんの怖い夢のお話。

福音朗読 ルカ福音書23章35-43節

 35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
 39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

王の力

年間の主日の最後が「王であるキリスト」というふうに定められていて、来週からは待降節に入るわけですけれども、最後がこの王であるキリストで年間の主日が締めくくられています。若いときから思っていたんですけれど、王であるキリストってどう考えたらいいのかなというかですね、現実問題も王様がいないので、今の現代社会には。たぶんこの教義ができたときは、たぶんヨーロッパの国々が絶対君主時代というか、王様に囲まれていて、それでバチカンの力が弱くなる。そんな戦いの中で、結局キリストこそ本当の王様だったということを言わなければならなかったという時代背景があるかもしれないですけれど、今はもう王様、どこにもいない。ほぼいないですから。王であるということをわざわざ言う必要性がどこにあるのかなというですね。
そういう疑問も持っていました。

でも、だんだん年を取るにつれて思うのは、やはりイエス様が主であるということは非常に大事なことじゃないかというふうに、だんだんと考え方が変わってきたんですね。というのは、いわゆる子どもたちが読むファンタジー物語、ナルニア国物語とか指輪物語とか、ああいうお話はおとぎ話ですけれども、だいたい王様が出てくるんですよ。
しかも、国が混乱している時はどうかといったら、王様の力が弱かったり、王様がいなかったり、王様が年をとっちゃったとか、病気だったとかってですね、王の力が弱くなった時に、その国に大きな混乱と貧困と戦いと悪の力がはびこってくる。
そこで、本当に力のある王様が即位して、王の力が発揮されると、その国が安定するという、王が本当の方がいるところはですね、秩序が保たれる、秩序と正義が保たれて悪の力が抑え込まれるということと、もう一つは、王の力が強いところでは国が豊かになると。王の力が弱いとみ


【ミサ説教】ルカ福音書18章35-43節「本当のことが見えたら」
11/19/2025

ルカ福音書 18章35-43節「本当のことが見えたら」2025年11月17日年いやしのミサ旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

私たちは実は見えていないことが多いのかもしれません。本当に大事なことが見えるようにイエス様に願いましょう。目の見えない人はイエス様のいやしをいただいてそのままイエス様に従いました。私たちも、一人ひとりにイエス様が開いてくださる道を歩みましょう。

年の黙想やら、引っ越しやらでご無沙汰していました。

神父さんは防府教会に赴任しました。

福音朗読  ルカ福音書 18:章35-43節

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

本当のことが見えたら

ちょうど今日の福音書は、ルカの18章イエス様のちょうど癒しのところですよね。ある盲人が、目の見えない人が物乞いをしていて、群衆が、多くの人が通っていくのを見て。目が見えないから他の人に聞くわけですよね。ナザレのイエスの通りだと言って、イエス様の評判はこの盲人も聞いていたのであろうと思われますから。それで彼は自分にも愛おしいと思ったのでしょうけど、ダビデのこういうイエスを、私を憐れんでくださいと叫んだわけですね。
でも、周りの人がうるさいから、叱りつけて黙らせようとしたが、ますます大きな声でダビデの声、私を憐れんでくださいと叫び続けたということですね。

実際、目の見えない人は目が見えないというのは非常に大きな、当たり前ですけど、大きなハンデなので、どこを歩いているのか分からないわけですから、やっぱり大きな声を出すしかないわけなんですよね。
目の見えない人と付き合っていると、実はこういうことが多くて、分からないことがあったら、結局集まりとかだったら、普通、目が見えてたら受付とかに行って、これはどうですかとか、そういう人と会っているわけですけど、目が見えない人は受付がどこか分からないから、だからこれほんとこれよくあることで、大きな声でとにかく言うしかないんですよね。

だからわりと目の見えない人は大きな声でわりとちょっとみんなに聞こえるように、とにかく誰かに分かるように、大きな声でこうわりと言う人多いんですよね。それはもう一つの障害があるから仕方がないですけど、目が見えてたら大声を出さなくて、むしろ全然構わないんですけれど、やはり仕方がないですよね。
目が見えないんだから、もう誰がどこにいるか分からないから、困ったことがあったら言わざるを得ないんですよね。

日本語でね。空気を読むとかっていうことがあって、空気を読むって英


【ミサ説教】ルカ福音書18章9-14節「本当の祈り」
10/26/2025

ルカ福音書18章9-14節「本当の祈り」2025年10月26日年間第30主日ミサ防府カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

私たちが生きていく世界で、自分のことであれ、周囲の人のことであれ、私を憐れんでくださいという祈りを謙遜に捧げることこそ私たちクリスチャンの一番の使命ではないでしょうか。そのような祈りによって私たちの中に神様の力が働いていくと思います。

三週間ほど説教ライブはお休みです。

福音朗読 ルカ福音書18章9-14節

9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

本当の祈り

今日の福音書はルカの18章を二人の人の祈り方をイエス様が対照的に比較しているというか、描いているという形のたとえ話なんですけれども、ルカの福音書では、特にこのように対照的なこの二人の人を挙げて、そして私たちにタイプをかけるというのはですね、ルカの福音書の大きな特徴です。放蕩息子とそのお兄さんとか、マルタとマリアとかですね、対照的な。二人の態度を取り上げるわけですね。

今日は祈りの態度で、一人はファリサイ派の祈りで、もう一人は徴税人の祈りということですが、
ファリサイ派の人の祈りは。実際、神様に感謝をしているのですが、これが純粋に祈りかどうかも、なかなかちょっと難しいかなというふうに思います。結局、自分がやったことを誇っているというか、自分がやっていることを、まあ何か神様に報告してるよね。私は週に2度断食し、全収入の10分の1を捧げていますと。自分のやったことを神様に言っているだけで、他の人と比較しているわけですが、これが本当に祈りかどうか、なかなか難しい感じは、やっぱり祈りは感謝するとしても、神の恵みを感謝するものであって、自分がやったこと、これをやりますと、これをやりますと報告するところではないので、ちょっとこの人の祈りはと祈りと言えるかどうかというのは、確かに大きな疑問があります。

逆に徴税人、徴税人というのは、罪人の代表者で、税金を集めてローマ帝国の税金が集まって売国奴でですね、それでもってピンはねとかしているから、なかなかお金持ちであって非常に嫌われた人なんですけど、罪人の代表者みたいな。
その人は遠くに立って胸を打ちながら、神様は罪人の私を憐れんでくださいと、神様に自分の弱さ、至らなさをさらけ出して、神様に憐れみを願っている。これこそやはりこの態度を神様が義とされた義とされたということですけれども、でもそれは何か本当に私たちの宗教的な態度というのはどこにあるのかと言えば、やっぱりこのようにですね、自分の弱さや至らなさを