英隆一朗神父の福音お休み処
マタイ福音書15章21-28節「出会いによって変えられる信仰」
マタイ福音書15章21-28節「出会いによって変えられる信仰」2026年8月16日年間第20主日ミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
カナンの女は、異邦人として冷たく扱われても、娘のために願い続け、その信仰をイエス様から称賛されました。教会もまた、異なる背景を持つ人々を受け入れることで変えられ、成長してきました。私たちも新しい出会いに心を開くことで、信仰や愛を深めていくことができます。同時に、カナンの女のように、困難の中でも神様にしつこいほど願い続けることも大切です。人とも神様とも、生きたやりとりを重ねながら歩んでいきたいと思います。
福音朗読 マタイ福音書15章21-28節
21〔そのとき、〕イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
出会いによって変えられる信仰
今日の福音書は、マタイの15章ですけれども、カナンの女の娘の癒しの話ですが、非常に奇妙なお話で。
異邦人、カナンの出身なので、異邦人でユダヤ人じゃなかったんですけど、まあ、素直に読む限り、弟子たちもイエス様も異邦人の人を癒すことにあんまり賛成してなかったというか、ちょっといやいやみたいな感じで、この子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけないと。
子どもたちは明らかにユダヤ人で、小犬というのは異邦人ですね。だいたい聖書では、犬というのはだいたい軽蔑される動物としてだいたい描かれているんですが、明らかに差別的なことをイエス様が言っておられるような感じで、このイエス様の冷たい態度は一体どういうことなのか、とかですね、いろいろ疑問点のある聖書の箇所ではあります。
しかも、この聖書の解釈がこれまた山のようにあって、いろいろ難しいところというのは、いろんな解釈があるということなんですが、一つの解釈をお話しすると、これはですね、マタイの、マタイが属していた教会の様子が反映されているのではないかという意見もありますね。
つまりどういうことかと言ったら、たぶんマタイの属していた教会は、アンティオキアの教会か何かだっただろうと思うのですが、まあ、最初はですね、イエス様の復活の後ですけれども、弟子たちが宣教活動で、あちこちでイエス様の福音の伝えて信者を作っていくわけですけど、最初はユダヤ人だったんですよね。
ユダヤ人の主だったんですが、途中からだんだんと異邦人が増えてきて、アンティオキアの教会はもともとユダヤ人の教会だったんですけど、どんどん福音が広がっていくうちに、異邦人がどんどん教会に来るようになったんですよね。で、アンティオキアのユダヤ人たちは、本音では異邦人を受け入れたくなかったんですけど、でも、たくさん来るから、もう仕方がない。受け入れざるを得なくなったっていうですね。そういう状況が、この話の中に、イエスの言葉は、アンティオキアのユダヤ人たちの教会の本音を表している言葉ではないかという、そのような意見もありますね。まあ、こういうところはいろんな解釈があるんですが、それもそうかもしれない。
結局、何て言うんですかね、私たちが教会のメンバーはやっぱりこれだけだとか、この人たちだけだというふうにあって、でも結局いろんな人が来るようになって、どんどん変えられていく。しかも案外外から、後から来る人の方が、かえって信仰が熱心だったりすることがあったりして、それでやはり教会全体がいわば変えられていく。いい意味でですね、活性化されていくというですね、それはやっぱりあるかもしれない。
だから私たちが異なった人とか違った人を排除というか、受け入れない態度をとるか。でもそういう人たちに対してオープンな態度をとるかで、やはり神様の働き方がだいぶ変わってくるということは言えるんじゃないかというふうに思います。
日本の教会では明らかですけど、今日もミサに来ておられる、やはり外国人の方が昔と違って、アジア、アジアからの外国人の方々が今教会に来られるように、別にこの教会だけでなしに日本中の教会がそうであって、しかも若くてエネルギーがあって、しかも信仰深いですね、若者たちが教会に来ることによって、多くの教会、日本の教会は、日本人の信者さんが、どちらかというと若者が来ないで、高齢者にどんどんなってですね、そういう中で外国人の若い信者たちが来るようになるってことは、やっぱり何か教会が変わっていく一つの大きな恵みがやっぱり私たちに与えられている。
それはこのカナンの女の癒しの話の中で、やっぱりこういう出来事が今でも私たちの中に起こっているということを受け止めて
マタイ福音書14章22-33節「恐れにとらわれない自由」
マタイ福音書14章22-33節「恐れにとらわれない自由」2026年8月9日年間第19主日ミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
今日の福音では、嵐の湖を歩くイエス様と、恐れにとらわれて沈みかけるペトロの姿が描かれます。人生にも突然、足元を揺るがすような嵐が訪れます。しかしイエス様は「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と語りかけます。アウシュビッツで他者の身代わりとなったコルベ神父も、極限の状況の中でなお自由に愛を選びました。私たちもイエス様に信頼し、恐れや不安に振り回されず、自由な心で愛を選び、平和を築いていきたいと思います。
福音朗読 マタイ福音書14章22-33節
22〔人々がパンを食べて満腹した後、〕イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
恐れにとらわれない自由
今日のイエス様のお話です。マタイ24章ですが、非常に不思議なお話というか、イエス様がなさった奇跡の中で一番奇妙というか、何のためなのか、ちょっとよくわからないのが今日の福音だと思うのですが、水の上を歩いたイエス様がというですね、ちょっとあまりに特別すぎて、何かちょっとキョトンとしてしまうところではありますけどね。
時々、マジシャンが空中浮揚する人が、セロだったか、なんかちょっと空中浮遊をするマジックをする人もいるんですけど、でも、何のためにイエスだけの話でなくてペテロも歩いたというのも、これもよくペトロの方は途中で恐ろしくなって遅れそうになっちゃったと言うんですよね。
あのイスラエルの巡礼が好きで、何年かに一回行くので、ガリラヤ湖はしょっちゅう眺めてますか。ガリラヤ湖を見つめながら、さすがにこの上をイエスが歩いたというのは、ちょっと信じられないなと。いつもその湖を見ながらですね、ガリラヤ湖というのは湖ですから、日頃は波もなく、非常に静かなんですけど、でも時々山から北風が吹いてくると、突然嵐のようなものになったりして、そういう湖ではあるんですけど、やはりユダヤ人にとってはですね、ユダヤ人は基本に、基本的には陸の民なんですよね。羊を飼ったり、野原で生活したりする方が何か基本的な生活なので、やっぱり海というのがあまりなじみのないものがあって、日本人とちょっと感覚がちょっと反対みたいなところ。日本人にとっては、海っていうのは何か恵みの源みたいなイメージで捉えているんですけど、でもユダヤ人にとっては海は逆で、何かどこか怖いものっていうか、得体の知れないようなものであるというですね。だからレビアタンという怪獣が海から出てきたり、あるいは何かクジラに飲み込まれたとか、そういう海に纏わるお話というのは、どちらかというとネガティブなものが多いんですよね。世の終わりには、黙示録の最後には海がなくなっちゃうっていうか、陸だけになっちゃうとかっていう描写になったりするんですが。
やはり私たちが実際日常生活の中で生きている中で、もちろん凪のような静かな海の上を船で渡っているような時もありますが、やはり日本人にとっても台風であったり、津波であったり、嵐であったり、それは結局、私たちの人生にも度々起こることであることは、それは自然現象的だけじゃなしに、私たちの日常生活のことを考えても、こう土の上をですね、土台のある上を歩いているつもりが、何かちょっと大きな不幸とか困難なことにぶち当たると、急に何か自分の支えがぐらぐらしてしまって、何か海の中に、嵐の中に飲み込まれてしまうような、そのような何か困難というか恐ろしさを感じることは、やはり度々あることでは度々か、時々はあることではないかなと思いますね。
この嵐の上を歩くイエス様のところは、確か記憶にある限り、コロナが始まった頃、フランシスコ教皇が実はこの箇所を取り上げてですね、「安心しなさい、私だ。恐れることはない」と。やはりそのメッセージを全世界のカトリック信者に投げかけて、心を鎮めるようにメッセージを呼びかけた箇所でもあるんですけれども、確かに私たちが問題なのは、実際は様々なことに恐れてですね、溺れそうになったり、方向性が分からなくなってしまう。その時にイエス様は全くそういうものに振り回されず、嵐の海の上を歩いておられる。イエス様、何かそれはなんか空中浮揚している奇妙な姿というよりは、やはりイエス様は神様という土台に足を置いて、その土台の上に生きて、確固たる土台の上に生きておられるから、この嵐
マタイ福音書14章3-21節「食事から広がる神の国」
マタイ福音書14章3-21節「食事から広がる神の国」2026年8月2日年間第18主日ミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
パンの増加の奇跡は、飢えを満たすだけの出来事ではありません。イエス様は、わずかなパンと魚を分かち合い、人々が共に食べる場をつくられました。食事は見知らぬ者同士を結び、交わりや助け合いを育てます。災害時の炊き出しや子ども食堂も、食べることから人を支える働きです。私たちも自分の持つ乏しいものを差し出し、共に食べることを通して、神の国のつながりを広げていきたいと思います。
福音朗読 マタイ福音書14章3-21節
イエスは〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
食事から広がる神の国
今日の福音書はマタイの14章、いわゆるパンの増加の奇跡と呼ばれるものですね。イエス様が人里離れたところに行ったのですけれども、そこに人々が集まってきて、大勢の群衆が集まって来たので、イエス様は非常に深く憐れんで、病人を癒しただけではなくて、そこでいろいろなお話を群衆たちにされたんだろうと思います。そして、時間もだいぶ経ったし、夕方なので弟子たちが心配して、周りにはお店とか何とかないので、とにかく群衆を解散させて、近くの村まで行って食べるようにしてくださいというわけですが、イエス様はここで突然びっくりするようなことを言われて。
行かせることはないと。あなた方が彼らに食べるものを与えようと言ってですね。
でも、パン5つと魚2匹しかないと。それをわかちあったって大したものではない。
でも、イエス様がその5つのパンと2匹の魚を取って、祈りを唱えて、それをどんどん増やしてですね。それで弟子たちがその人々にこのパンを分け与えて、みんなが満腹したという、まあなんかちょっとほのぼのするようなお話だというふうに思います。
まあ、このお腹が空いてて、このパンを食べるっていうかですね、魚もそうですけど、やっぱりこう食べるということは、何て言うんですか。やっぱり一番ベーシックな人助けというか、一番大切なことだなと。それをイエス様がされたということは非常に意義深いというか、何か心にしみるような形になると思います。
今はちょうど熊本の震災の後で、後で、今回真夏なので水とかいろいろな心配がいろいろありますけれど、結局そういう被災者の支援活動もそろそろテレビに出てきてますよ。炊き出しとか、やっぱりベーシックな、食べる、食べることからまず援助するというのは、何かもう、ごく基本の基本という、人助けの一番基本だと思いますね。
だから、野宿者やホームレス支援の基本もやっぱり炊き出しなんですよね。それで、今ちょっと地方では非常に減ってきて、都会でも少し減りましたけど、それでもやはり一番ベーシックな支援というのは、やっぱりご飯を食べてもらう手伝いをするというか、そして今も関わっている方がおられると思うんですけど、今、全国である子ども食堂もそうですよね。もうその、今や日本の中でも貧困率が高くて、満足にご飯を食べれない子どもたちもいるので、全国で子ども食堂をやってですね、まず食べることからスタートするということですから、イエス様がこの飢えている人に食べさせるところから奇跡を行って、その恵みを示されたということは、私たちにとって大きな励みにも、あるいは刺激にもなるし、何か私たちに与えられている課題でもあるというふうに思いますね。
食べるということは、単に飢えを満たすだけじゃなしに、それをとおして私たちに、何て言うんですかね、さらなる恵みというか、それを与えてくださっているような気がするんですよね。この教会でも皆さんご存知ですが、普通の日曜日のミサの後は、ちょっとみんなでコーヒーを飲んだり、あるいは最近は月に一回、外国人の人とやっぱりミサを一緒にするから、ミサだけだったら何だからって、一緒にご飯も食べたりしていますけれども、やっぱりそれが何かこう、ただ単にに食べたり飲んだりじゃなくて、やっぱり互いの交流というか、交わりのために非常に意味があるというふうに思いますね。
ここに東京から時々友達が来たり、あるいは全然知らないアジアからの観光客の方もよく来られて、シンガポールや香港からとかですね、見慣れない顔だなと思ったら、外国人で巡礼に来て、巡礼にこの辺、観光と巡礼
【ミサ説教】マタイ福音書13章24-43節「自分の闇とともに」
マタイ福音書13章24-43節「自分の闇とともに」2026年7月19日年間第16主日ミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
イエス様は、畑の麦と毒麦を刈り入れまで共に育てるよう語られます。私たちの内にも光と闇があり、弱さや欠点は簡単には消えません。『ゲド戦記』のゲドが自分の影と向き合ったように、ユングのいう「統合」とは、闇を無理に消すことでも正当化することでもなく、その存在を意識して受け止めることです。光が強い人ほど深い影を持ちます。影に振り回されず、光と影を抱えて生きることが、魂の成長につながるのだと思います。
福音朗読 マタイ福音書13章24-43節
24〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
31イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」33また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
34イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。35それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
自分の闇とともに
マタイの13章はこの神の国ですね。天の国、神の国のたとえ話をイエス様がいろいろされるものですね。このお話も非常にたとえとして考えさせられるものですけれども。この畑に良い種を蒔いたはずなのに、この麦もですね、育ってしまって、畑の中にこの麦と毒麦が混ざって育つような形になってしまう。でもその小さい時と言うか、出たばかりは、どっちがどちらが麦でどちらがどこもいいか分からないので、やっぱりある程度育ててですね。で、刈り入れる時まで、両方とも育つままにしておきなさいということを言うわけですね。
神の国のたとえ話なんですけど、神の国では麦と毒麦が混ざっているというですね、非常に不思議な感じもしますね。
神の国なんだから麦だけだろうと思うんですけど。だからこれはもう神の国のたとえ話なのか、この世界のたとえ話、私たち地球上の話なのかというふうにも思えます。実際、まあ確かなことはですね、それは私たちが生きている世の中ということになりますが、やはりこの麦と毒麦が混ざってて、しかも何が毒麦なのかよく分からないということですよね。
これは本当に何かその通りだなというふうに思います。若い時はですね、こうやっぱり自分の悪い部分を直そうとするか、無くそうとするか、まあ良い部分を一生懸命もちろん伸ばすわけですが、なるべく悪いところをなくすとか、変えようと思うんですけど。でも案外変わらないって言うんですかね、この人間の性格にしても何にしても、実際ほとんど変わらないというか。一生懸命頑張っても、そんなに何か若い時と年取ってもですね、その人の弱さとか欠点とか、まあなんかほとんど変わらない気もするんですよね。それを結局どうしていくかということになるかもしれない。
あの、ファンタジー小説ですかね。この少年少女向けのファンタジー小説でゲド戦記というのがあって、多分魔法使いの話なんですけど、ゲド戦記が多分僕はそういう子供向けのファンタジー小説では多分一番いいんじゃないかと。個人的にはいろいろいろいろあるんですが、ハリーポッターが出るもっと前の話で、ゲドというですね、その名前の人が魔法使いに成長していって、それで魔法使いとして活躍していく話なんですね。
本編だけで4巻があって、そのほかの話はたまたまいっぱいあってですね。40年がかりで書かれた小説なんですけど、その1巻の話なんですが
【ミサ説教】マタイ福音書13章1-23節「実りを神に委ねて、種を蒔き続ける」
マタイ福音書13章1-23節「実りを神に委ねて、種を蒔き続ける」2026年7月12日年間第15主日ミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
種を蒔く人は、良い土地を選ばず、道端や石地、茨の中にも種を蒔きます。そこに、実りそうな人だけを選ばず、誰にでも御言葉を届ける神様の憐れみを感じます。私自身、信仰に至るまで十年かかりました。目に見える成果がなくても、何が実りとなるかは人間には分かりません。実らせるのは神様です。効率や結果にとらわれず、神様の御心に合わせ、私たちにできることを忍耐強く続けたいと思います。
福音朗読 マタイ福音書13章1-23節
1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9耳のある者は聞きなさい。」
10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
実りを神に委ねて、種を蒔き続ける
マタイの13章ですが、ここも一つの説教集になっていて、神の国、天の国の譬え話がいろいろ集まっているものですね。その中でもやはりこのたとえ話が一番有名な話だと思います。農夫が種をまくんですが、この道端に落ちたり、石だらけの所に落ちたり、あるいは茨の間に落ちた種は当然実らなかったり、すぐ枯れてしまったりですね。まあ実らないですけど、良い土地に落ちたものは多くの実を結ぶというですね。というたとえ話です。その解釈は後から出て出てきて、それも意見があって、この解釈は初代教会の解釈じゃないかとか、いろいろ説もあるんですが、ともかく有名なたとえ話です。
この譬え話を読んで一番奇妙に思うことは、私が何なのかというと、この農夫っていうか、この種を蒔く人のどうやったらいいのか、いい加減さっていうんですかね、日本の農業をやる人、こんなことを絶対しないと思いますけど。つまり、良い土地にしか種をまくないと思うんですね。
種は昔も今も貴重なもんですから。それが道端に落ちたり、石だらけの土の少ないところに落ちたりですね。あるいは茨に落ちるということは、日本の農業から考えたらまず考えられないんじゃないかなとは思います。まあ、昔の農業は、パレスチナ地方の農業はそういうアバウトなところがあったのかもしれないですが、実際ですね、これはもちろんたとえ話で、個人的に思うのは、この良い土地に落ちて実を結ぶというより、良い土地でないところにわざと神様が種をまいているんですかね。
あまり実らないところにすら、神様が神様の話ですよね。種を蒔いているというところの方が不思議だというか、意味があるというかですね。
農業だったらそれはもう当たり前に良い土地にしかまかないのは当たり前の話ですが、これはもちろん農業の話をしているわけではなくて、神様の憐れみの心、イエス様の輪の心を語っているわけですが、良い土地じゃないところにも、わざと神様は種を蒔いている。その神様のやり方の方が実は何か感動的なんですね。
【ミサ説教】マタイ福音書11章25-30節「重荷をイエス様と共に」
マタイ福音書11章25-30節「重荷をイエス様と共に」2026年7月5日年間第14主日ミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、私のもとに来なさい」と招いてくださいます。人間的な知恵や計らいだけで行き詰まる時、幼子のような素直な心で神様に向かうなら、魂の安らぎが与えられます。重荷そのものが消えなくても、イエス様と共に担うことで荷は軽くなり、歩むべき道も示されます。私たちも神様への信頼と祈りを保ち、必要な力と勇気をいただきたいと思います。
福音朗読 マタイ福音書11章25-30節
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
重荷をイエス様と共に
今日の福音書は、聖書の中で、福音書の中でも、最も慰め深い言葉が書かれているところだと思います。疲れたもの重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげようというふうに言ってくださるわけですから。
時々は私たちも疲れてしまったり、重荷を何か、何か重荷を負うのが疲れすぎるということもあるのではないかと思います。
今日の福音書の出だしのところが、このイエス様が父なる神を賛美するんですけど、この賛美の内容が面白いですよね。この、なんていうのか、何か仕事がうまくいったとか、何かで賛美するんじゃなくて、何を賛美しているかというというと、これらのことをある者や賢い者には隠して、幼子のようなものにお示しになりましたということで賛美してるってことですね。
非常に不思議な感じがしますが、山口県に来てから幼稚園の子どもたちと接する機会も増えましたが、やっぱり幼子のようなものっていうのは、本当に神様に近いっていうのはつくづく思いますね。お祈りしても聖歌にしても、大きな声で一生懸命歌うし、何かお祈りも素直にするしですね。
やっぱり幼子のようなものにこそ神様が近いというかですね、私たちも人間いろいろ考えて、ああでもないこうでもないと考えちゃうから、なかなか神様と近くなれないようなところはあると思いますけど、幼子のようなものこそ神様に近いというのはあるんじゃないかなと思いますね。
ただ、やはり先ほど言いましたけど、疲れたものや重荷を負っている時こそうまくいかないわけですから、そういう時こそ私たちは幼子のような心に戻ってですね、私たちの計らいを置いて、素直な心を神様に向けていく時に、このイエス様から休みっていうんですかね、安らぎをいただくということはあるんじゃないかなというふうに思います。
最近聞いた、分かち合ってもらった、最近信者になった人の話で、この教会の人じゃないですけど、あのご家族が信者で、本人は違ったんですけど、なんか信者見てたらもうバカバカしいと。もう何もせずにあんなバカみたいなことやってるんだみたいな感じで、全くその信者とか信仰とかどっちかと軽蔑してたんですね。
で、仕事でバリバリ頑張ってて、専門職で会社を助けるような、いろんな企業を助けるような仕事をされてて。ある企業がですね、非常に経営的に非常に大きな問題があって、下手したら倒産する可能性もある。それでその人が関わって、いろいろな方法を考えて、こうしたらいいんじゃないか、あっちの方がいいんじゃないかと、いろいろ解決策を考えて、それを実行することになったんですけど、後からその彼のやってることが、その法律にかなり違反していることだということにだんだん気づいてきてですね。ちょっと細かい話を聞いても、ちょっと専門的なことだから、ちょっと何が違反なのか、何がちょっとあんまり個人的によく分からないんですが、結局、もしこれが査察とか何か入って何かしてしまったらですね、その企業が倒産する可能性がある。倒産したら、関連企業を含めても何千人の人が路頭に迷ってしまうし、自分も罪に問われたら家族にも相談、損害賠償だったか、そういうものを請求されたら本人が死んでも家族が払わなきゃならないとか、そういう法律があって、家族にも及んでしまってですね、彼も相当追い込まれて、結局逮捕される前に自分が死ねば問題が発覚しないよう、それ、それでうまくいくんじゃないかって。だいぶ追い詰められてですね。いつ死ぬか、いつ死ぬかってことばっかり考えてたんですけど、その時に結局あまりに重荷というか、結局どうしたかって言ったら、教会に初めて行くようになって、それで神父さんのお話を聞くようになったというんですよね。
ここにある通りに、私のくびき負い、私に学びなさいと言ったと。それで初めてさんからいろんなイエス様のことを学んでいるうちに、思いもつかない、全然違う、考えたこともないような福音の話とか、神の愛の話とか、そういうことを聞いているうちに、だんだん自分の心が実際安らいできてですね、あれだけ苦しんでた自分の問題が解決するわけじゃないですけど、非常に安らぎが得られるようになっ
【ミサ説教】マタイ福音書9章36節-10章8節「小さな働き手として」
マタイ福音書9章36節-10章8節「小さな働き手として」2026年6月14日年間第11主日ミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
今日の福音書では、イエス様が弱り果てた群衆を憐れみ、弟子たちを働き手として遣わされます。働き手不足は今の教会にも通じる課題ですが、私たち一人一人も小さな働き手として召されています。特別なことではなく、誰かを励ます言葉、温かい笑顔、食事を用意すること、悩みを聞くことも福音宣教です。言葉と行いを通して、神様の愛と恵みを分かち合っていけるよう願いたいと思います。
福音朗読 マタイ福音書9章36節-10章8節
そのとき、イエスは、9・36群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
10・1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
小さな働き手として
今日の福音書は、マタイの9章の終わりから10章にかけてのところですね。このところは、イエス様が弟子たちを遣わすにあたり、福音宣教の心構えを記しているというふうに言われています。10章全体なんですけど、その冒頭の部分が語られたという形になっていますね。
なんで12人を派遣することになったのかといったら、一つは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果ててうちひしがれている、救いを必要としている。苦しんだり喘いだりしている人々がいっぱいいてそこで深くイエス様が憐れまれたというのが動機になるわけですね。
そして弟子たちにこう言うわけですね。収穫は多いが働き手が少ないというんですけど、今の日本社会も働き手不足でだいぶ苦労してますが、教会も働き手不足ですね。どこも働き手があまりないので、ちょっとどうしたらいいか。イエズス会ももう召命というか日本人で入る人はほとんどいないので、えらい働き手不足で、どこもかしこも働き手不足で実際は困っているというのがあれですけど。
2000年前から働き手不足は働き手不足だったということですが、その中でこの働き手を送ってくださるように祈れって言うんですけど、それは本当にその通りだなと気がしていますが、祈るとともに、私たちが、力が乏しい少人数であっても、私たち一人一人がいわば小さな働き手としてですね、やはり歩んでいくように、そういう呼びかけとして私たちは受け止めたらいいのではないかなと思います。
実際、私たちが、こんなの多くの人がクリスチャンとしてやはり召し出されたのは、やっぱり小さな働き手として生きるようにということじゃないかというふうに思うんですね。実際、この5節以下ですけど。失われたの羊のところに行きなさいと。結局、自分の側にいる苦しんでいる人のところに、まずは行きなさいということと、何をするかといったら2つなんですね。行って天の国は近づいたと述べ伝えなさい。言葉によって伝えるということと、もう一つは病人をいやし、なんとかかんとかって書いてんですけど、結局癒しの業を通して人々を助けなさいと。
だから言葉と行いによって私たちは働き手となるという非常に当たり前のことを言っているわけで、それを私たちが少し意識することができたらいいのではないかなと思います。
皆さんもそうでしょうけど、誰かの一言とか、何かある言葉によって何か励まされたとか、助けられたとか、そういうことは誰にだってあるのではないか。ある人の一言によって、それが本当に友人、家やか先生か、あるいは何かテレビに出てくるアーティストの一言とか歌詞とかですね、何かによってやっぱり助けられるってことは、実例あげたらいくらでもこれはあると思いますね。
ある一人の信者さんですけど、精神障害者の作業所か何かで働いてて、なかなか大変なんですよね。だからいろいろ問題も多くて、いつも鬱々と悩んだり、いろいろして暗い顔をしていて、それもその時も悩んでて、たまたま道を歩いててですね、たまたま信号待ちしていた時に、たまたま隣に並んで待ってた全然知らない青年が、その人も障害者で、知的な知的ハンディを持っているような感じの、見た感じはですね。で、信号が青になった途端、その全然知らない人ですけど、その若者とか青年が自分の方に向いてですね、突然にっこり笑って、元気を出して行こうよって、一言言って、それで歩いてたっていうんですけど、その一言でものすごい救われたというか、その障害者のことで一生懸命やってて、もうへとへとになって
【ミサ説教】ヨハネ福音書3章16-18節「三位一体は真の交わりの姿」
【ミサ説教】ヨハネ福音書3章16-18節「三位一体は真の交わりの姿」2026年5月31日三位一体の主日のミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
三位一体、父と子と聖霊は、それぞれ異なるペルソナ(位格)を持ちながら、本質において一つである神です。私たちは個性や人格があるからこそ悩みや対立を経験しますが、同時に人と愛し合い、支え合うこともできます。本質は与えられるものですが、それを日々の生活の中で生きてこそ意味があります。イエスを通して示された神の愛に倣い、一人ひとりの人格を大切にしながら交わりの中で生きることの大切さを心に刻みましょう。
福音朗読 ヨハネ福音書3章16-18節
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
三位一体は真の交わりの姿
今日は、先ほども言いましたように、三位一体の主日、三位一体をお祝いする主日に当たっています。
三位一体というのは、キリスト教で教えの中でも、最も大切なことの一つですけど。
三位、父と子と聖霊というですね。それはそれぞれペルソナというか、パーソナリティとか個性がそれぞれ別ですけれども、一体である。つまり本質が一つであるとですね、神として本質は一つですけど、3つのペルソナに3つのパーソナリティというか、個性というか、神様だから神格、人間だったら人格とかですけど、それに分かれているというですね、最も大事だけど最も分かりにくいのが三位一体の教義だと思うんですけど。
イスラム教みたいにアラーの神様一つだけと言った方が、神様は一人で一つで絶対的な方だと言う方が分かりやすいと思いますね。
あるいは仏教や神道のように神様とか仏様がいっぱいいると、それはそれでそうなんですけど。だからこの3つで一つというのが一番分かりにくい。一番分かりにくくて一番大切というのもですね、不思議な気がします。
もともとですね、もう何十年前からですけど、新エヴァンゲリオンというめちゃめちゃ流行ったアニメがあって。
もう終わったんですけどね。25年ぐらいかかって終わったんですが。一番最後の最後が宇部新川駅で終わるんですよね。アニメの一番最後が。だからもうそこがいわゆる聖地巡礼の場所になってて。私もこっちに来たから。行ったことあるんですけれども。田舎の駅ではあるんですけど、その監督の庵野秀明っていうのが。そこ出身なので。宇部のことがよく出てくる。そこで僕も感慨に浸ってたりしてたんですけど。そしたらやっぱりもうあれからもう何年経ってるのかと思うけど、僕よりちょっと若めの中年男性が何人かうろうろしてて、写真撮ったりしてたりして。いまだにその根強い人気があるんですけど。
そのエヴァンゲリオン長い長いお話なんですけど、最初の頃のお話は、お話の中にですね、人類補完計画って出てくるんですね。それが何なのかちょっと分からないうちにだんだんお話が進んでてですね。最終的にいろんないろんな話があるんですけど、とにかくその最初の頃のシリーズの完結編ではですね、とうとう人類補完計画が何なのかが明らかになるんですけど、それは何かと言ったら、人間が何で苦しむのかを互いに助け合ったり、理解できないとか、仲良くなれないとか、それは結局一人一人にペルソナがあるからだというね。一人一人に人格とかパーソナリティがあるから、結局人間は苦しむ。エゴがあるからですね。お互い同士、対立したり、孤独になったり、理解できないという。人類補完計画が最終的に明らかになるのですが、何かと言ったら、それは恐ろしい計画ですけど、ペルソナを全部なくして、人間という本質一つだけにみんな戻るっていう話なんですね。
だから個というものがなくなって、一人一人のペルソナがなくなって、人類という一つだけの本質に固まっちゃうっていう、そういう恐ろしい計画が進むんですけど。結局その1話の完結編では、とにかくシンジ君っていう青年がなんと中2の男子ですけど、彼がとうとうその計画をストップしてペルソナが残るっていうのが、その最初のシリーズの完結なんです。一つの結論なんですけどね。
それはなかなかやっぱり考えさせられるというかですね、私たちが何で苦しむかと言ったら、実際はペルソナがあるから苦しんでいる。お互いのエゴとエゴがぶつかったりとか、あるいは人がいなくて孤独になってしまったり、理解されなかったり。だから、でも、ペルソナがもしなければ、私という存在もなくなってしまう。それもちょっと。だから神様が本質が一つ、神という本質であって、それぞれのペルソナの中で関わりがあるというですね、それはいわば一つの私たちの理想的なある姿を語っている。それぞれが別だけども一つになれるっていうですね、その恵みの世界というか。
だからこのペルソナをなくしてしまって、本質だけにするっていう乱暴な方法でもないし、あるいはペルソナだけで本質的に一致していなければ、ただのバラバラで苦しむだけだから、やっぱり三位一体っていうのは、いわば私たちのこ
【ミサ説教】ヨハネ福音書20章19-23節「聖霊の風に乗って生きる」
ヨハネ福音書20章19-23節「聖霊の風に乗って生きる」2026年5月24日聖霊降臨の祝日のミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
聖霊は、ただ待っていれば働くものではなく、人が「赦そう」「愛そう」「前へ進もう」と決断する中で力を現します。祈りと行動が結びつく時、私たちは自分の力以上の恵みに支えられていきます。自力だけで飛ぶ雀ではなく、風に乗る鷹のように、聖霊の導きに心を開くことが大切です。赦しや和解、勇気ある一歩の中でこそ、神の力は豊かに働いてくださるのです。
福音朗読 ヨハネ福音書20章19-23節
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
聖霊の風に乗って生きる
今日は聖霊降臨の祝日をお祝いしています。イエス様が復活した後、50日後、50日後に、ルカの福音書とか、使徒言行録によると聖霊が下るということですが、でもやはり私たちに聖霊が与えられているというのは、イエス様の復活と深いつながりがあるということですね。今日はヨハネの福音書が朗読されましたけれど、ヨハネの福音書では、復活したイエス様がですね、すぐに聖霊の恵みを与えているというふうに記述されています。
彼らに息を吹きかけて言われた息というのが、聖霊の愛そのものですよね。息を吹きかけて聖霊を受けなさいと復活した。主に聖霊の恵みを受けるという、それを私たちがお祝いしていて、そして私たちが聖霊の恵みによって生きていくようにということなんですね。
そしてその後がですね、今日のイエス様の言葉はなかなか考えさせられることですけれど、誰の罪でもあなた方が赦され、許せば、その罪は赦されるということですね。聖霊の愛があるので、そこで罪が赦されるということですけれども、あとなんですよね、あなた方が、さなければ許されないまま残るというふうに書いてあって、これなかなか考えさせられる。
当たり前といえば当たり前のことなんですけど、許せば、確かに許しがあると、許さなければ赦しがないっていうですね、まあある意味その通りなわけですよね。私たちが誰かを愛せば、そこに愛が生まれますけど、そこで愛さなければ愛は生まれないっていうですね、ある意味ごく当たり前のことを書いているというふうにも言えるわけですけど。でもこれは本当に私たちのどういう態度をとるかということと深くつながっているということなんですよね。聖霊の恵みは、私たちがこの聖霊の恵みが働く方向性に、態度というか生き方というか、それをすればそこに聖霊が働く。でも、私たちが諦めちゃって何もしなければ、聖霊が働きませんよと言っているわけですよね。
人を許せば聖霊が働いて赦されるけど、私たちがこの人許したくないとか、もう何かと思って許さないままほっといたら、聖霊も働かないし、赦しも起きない。だから、聖霊の働きというのは、実は私たちの主体的な決断と深くつながっているというですね、これが非常に大事なことだと思います。
つまり、私たちの協力というか、人間の側が愛するとか、あるいは許すとか、和解するとか、あるいは平和をもたらすとか、あるいは勇気を持って困難を乗り越えていくという決断がある時にこそ、そこにこそ聖霊が働いてくださるということですよね。人間の協力の中で、人間の決断の中でこそ聖霊の恵みが働く。
だから聖霊の恵みが大事ですけど、私たちの人間的な決断とか、人間的な私たちの心の方向性、これが決定的だということですね。
例えて言うならば、簡単な例えですけど、若い頃は私、体育会系男子だった時期もあって、中学高校の頃はサッカーやってたんですよね。わりと熱心にサッカーやってて、運動をやる人は大体そういうことを経験すると思うんですけど、もうね、もうこんな暑くなってきたらまず練習が嫌なんですよ。この暑い中でまたって気持ちも入らないし、なんかもう心も体もだいたい、いやいやだいたいだいたい入るわけですよね。でもでも、練習してて体を動かしてると。しかもだんだんですね、中学生の時は高校生ぐらい。だんだん上手くなってきたら余計そうなんですけどね。
最初は。いやでもなんかこう一生懸命やってるうちに。なんか体がほぐれてきてですね。なんかこう自分の中からエネルギーがだんだん湧いてきて、こう、なんていうのかな、こう努力しながら、なんかこうある力と一緒にやるような感じですね。しかもなんかこう、サッカーみんな団体競技だからね、そういう気持ちになったけど、みんなだんだんそんな気持ちでこうコンビネーションがうまくいったり、パスがうまく通ったりとか、みんなでだいたいいい感じになってきて。なんかこう終わる時にはもうすっきりした充実感みたいな感じで終わるような感じなんですよね。運動してる人はよくわかると思いますけど。
【ミサ説教】ヨハネ福音書14章15-21節「真理の霊に導かれて生きる」
ヨハネ福音書14章15-21節「真理の霊に導かれて生きる」2026年5月10日復活節第6主日のミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
真理とは、単に正しい情報を知ることではなく、人を自由にし、愛へ導くものです。現代は情報が溢れる一方で、不安や憎しみを煽るフェイクニュースも広がっています。しかしイエス様が与える「真理の霊」は、人を恐れから解放し、他者を大切に生きる力を与えます。水俣病や戦争のような苦しみの現実にも目を背けず、その痛みを受け止めながら、祈りと愛をもって歩むことが大切です。また、安易な答えに飛びつくのではなく、誠実に問い続ける姿勢こそが真理への道だと故フランシスコ教皇入っておられました。
福音朗読 ヨハネ福音書14章15-21節
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
真理の霊に導かれて生きる
今日の福音書は、ヨハネの14章イエス様の告別説教の中の一部分が朗読されました。イエス様の復活の恵みの中でということでしょうが、真理の霊を私たちに送ってくださる。具体的には聖霊降臨の一つの恵みですが、復活の恵みの一つは、私たちに真理の霊を与えてくださって、永遠にこの真理の霊が私たちと一緒にいるという、あるいは私たちの中にそれが入るということを、主が保証してくださっているということですね。
私たちは真理というか、日本語的に言うと真実ぐらいの方がいいと思うのですが、本当に大事なこと、真実の霊が私たちの中にあると。それを私たちが生かしていくということの大切さということですね。
実際のところ、インターネットが発達して、SNSがいろんな情報がいっぱい増えるようになってですね、多くの人はこのインターネットができたことですけど、多くの人が情報がいっぱい、もっとたくさんの情報が私たちはアクセスすることができるから、もっと私たちは真実に触れることができるであろうとみんな思ってたんですよ。でも実際のところは、SNSとか何かオールドメディアとかニューメディアとか、とにかく情報がいっぱい入れば入るほど、実は逆なんですよ。真実がわからなくなっちゃうっていう、何が本当か嘘かあまりに情報がいっぱい入るからわからないわけですよね。
実際現地に行って、私たちは確かめられないから、本当か嘘かって実は分からない。実際のところはわざわざですね、どこかで戦争があっても、その規模とか行くことができないから、私たちはそういうネットとかいろんなことで情報が入るわけですけど、それがなんかもうメタメタになってるので、実はなんか現代はもっと真実に触れることができなくなってきたっていうですね、まあ矛盾し皮肉な中に私たちがおられるといるというわけですね。
それはなぜかといったらフェイクニュースっていうか、真実に基づかないものが、今だったら生成AIで勝手にどんどん作られて、全然いない人物が喋ったりとか、嘘のものはいっぱい作れることになったからこういうふうになってるわけなんですけど。
でも嘘のニュースっていうんですかね、つまり真実でないものの特徴は実ははっきりしていて、私たちの中にこの恐れや不安とか、そういう感情を駆り立てていく時に、これは大変だとか思って、そのニュースをまた流したりするから、嘘とかデマがどんどん広まって。
あるいはもう一つは、偽りの慰めっていうんですかね、何か彼らよりも私たちの上だから安心だとか、何か他の人を蔑視するっていうのは、軽蔑することによって安心感を得るような、なんかそういうやっぱり真実でないものの特徴といろいろあるわけですよね。
イエス様がくださっている真実というのは、どういう特徴があるかといったら、一番はっきりしているのは、それは私たちに本当の自由と愛の心を広げていくいうか、広めていくものこそ、やっぱり真実のものがあるということなんですよね。
より自由になる、振り回されなくなって、恐れや不安に振り回されなくなって、より自由になっていく。あるいは、人を憎んだり軽蔑したりするんじゃなくて、やっぱり愛の心っていうんですかね、一人一人を大切にしようとする。そういうところがある時に、やっぱり真実の霊が働いている。
私たちはその真実の霊にいかに合わせて生きていくかということ
【ミサ説教】ヨハネ福音書14章1-12節「イエスの歩んだ道がある」
ヨハネ福音書14章1-12節「イエスの歩んだ道がある」2026年5月3日復活節第5主日のミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
ヨハネによる福音書14章の「私は道・真理・命」という言葉から、信仰とは“歩む道”そのものだとわかります。殉教者、とくに乙女峠の証し人たちは苦しみの中でも道を見失わず、そこに慰めと力を得ていました。人は道が見えない時に最も苦しむものです。しかし、キリストの十字架と復活は確かな道を示しています。日常の中で自分の道をその道に重ねられる時、信仰者は本当の命と安定を得るでしょう。
津和野の乙女峠の殉教者のお話です
福音朗読 ヨハネ福音書14章1-12節
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
イエスの歩んだ道がある
今日の福音書はヨハネの14章で非常に慰め深い、あるいは意義深いことをイエス様がたくさん話されているところですね。最後の晩餐の席でイエス様が話された言葉の部分ですけれども、一番有名なのがやはり6節でしょう。私は道であり、真理である、あり命であるとおっしゃるところですけれども、私たち、私たちというか、この中の多くの方々がですね、やはり日本人の方々が多いと思うのですが、やはりこう道を歩むっていうんですかね、何かそれは何か私たちにとって非常に大切なものじゃないかなと思いますね。自分に与えられた職業だったり、使命だったり、その道をどう誠実に、あるいは徹底的に歩めるかというのは、案外一番大切なことじゃないかなと思います。
どんなことにもその道があったら必ず達人というか、名人みたいな人が実際おられるんですよね。将棋にしても何にしても、蕎麦職人にしてもですね、やっぱり名人と呼ばれる人がいて、羽田空港には掃除の達人みたいなおばさんがいると
【ミサ説教】ルカ福音書24章13-35節「見えない主とともに歩む人生」
ルカ福音書24章13-35節「見えない主とともに歩む人生」2026年4月19日復活節第3主日のミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ今日の福音書のエマオへの道は、復活したイエス様が弟子たちと共に歩んでいても、すぐには気づかれなかった物語です。私たちの人生でも、主は見えなくても共にいて、支え導いてくださっています。信仰の初めは主が私たちに歩調を合わせてくださいますが、やがて私たちが主の望みに歩みを合わせることが求められます。苦手な人との関わりや病気、思い通りにならない現実の中にも、復活の主の恵みは隠れています。この世の幸不幸だけでなく、魂の成長と永遠の命に目を向け、主と共に歩む一週間としたいものです。
来週のミサ説教はお休みの予定です。
福音朗読 ルカ福音書24章13-35節
13この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に
【ミサ説教】ヨハネ福音書20節19-31章「見えないものを信じる力には愛がある」
ヨハネ福音書20節19-31章「見えないものを信じる力には愛がある」2026年4月12日復活節第2主日のミサ長府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ復活したイエスに出会えなかったトマスは疑いますが、傷を示されたことで信じ、「見ないで信じる者は幸い」と教えられます。信じるとは、見えないからこそ成り立つものです。そして人を信じる力は、深く関わり、相手を受け止める中で生まれる信頼に支えられています。神との関係も同じで、愛と喜びの体験があるからこそ、見えなくても信じることができるのです。信じることは困難を越える力となり、私たちを前へと導きます。
英神父さんは、長府教会主任司祭に異動となりました。
福音朗読 ヨハネ福音書20節19-31章
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
見えないものを信じる力には愛がある
今日の福音書は、イエス様が復活された時のお話です。ヨハネの20章の後半のですが、イエス様が復活された日曜日の夕方、イエス様が現れて弟子たちにお会いになったわけですが、その時にトマスだけは不在だったので、彼は信じないとかたくなにそれを主張したわけですが、1週間後、それが今日の第2主日にあたるわけですが、その時にもう一度イエス様が復活された。イエス様が現
【ミサ説教】ヨハネ福音書20章1-9節「神様が共にいてくださる」
ヨハネ福音書20章1-9節「神様が共にいてくださる」2026年4月5日復活の主日のミサ防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころヨハネの福音書の空の墓の出来事は、復活をまだ理解できない人間の姿を示しています。英師は幼少期に「世界に一人だけ」という絶対的孤独を体験し、長く虚しさを抱えて生きてきましたが、洗礼を受けてから、その空虚は少しずつ満たされ、生き方そのものが変わったと気づいたそうです。復活の恵みとは、自分は一人ではなく、いつも神様が共に歩んでくださることを知ること。神に支えられているという確かな感覚こそが、絶望を消し、生きる力になるのです。
英神父さんの子供の頃のお話にゃ。
福音朗読 ヨハネ福音書20章1-9節
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
神様が共にいてくださる
今読んだヨハネの福音書の心は、日曜日の朝早くイエス様のご遺体を納めていた墓が空っぽであったということを記しています。まずは、マグダラのマリアは、他の女性もいたかもしれない。そこで墓は空っぽであって、驚いてマグダラのマリアが男の弟子たちに告げて、そしてシモン、ペトロと愛しておられたもう一人の使徒ヨハネですけど、彼らが大急ぎで走って行って、空の墓を見て、イエス様の遺体がなくなったということで、ちょっと唖然としているところで、今日の福音が語られているわけですね。
そして、この復活ということを二人はまだ理解していなかったのであるということで、今日の福音書が締めくくられているわけですけれども、私たちにとって復活というのは一体どういうことなのかということ、それは一人一人復活の恵みをどこで感じているのかということを確認したいと思いますし、あるいはこれからですね、復活の恵みをどう得ていくのかということも問われているのではないかというふうに思います。
今日は、先ほども言いましたけれど、とにかく8人の方の洗礼式があるということで、大人の人が二人と
【ミサ説教】ヨハネ福音書13章1-15節「最期の食事をともにしたイエスの愛」
ヨハネ福音書13章1-15節「最期の食事をともにしたイエスの愛」2026年4月2日聖木曜日のミサ防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ聖木曜日の晩餐は、イエスが死を前に弟子たちと食事を共にし、その心と恵みを分かち合った出来事です。食事は親しさのしるしであり、本当に分かち合ったイエス様そのものは「ご聖体」として今も私たちも恵みをいただいています。ともに食事をする、足を洗い合うという深い親しみの関係性を生きる、そんな生き方ができるように恵みを願いましょう。
https://hofucatholic.org/misa-info 防府カトリック教会の最後の晩餐のモザイク画ですはこちらから!
福音朗読 ヨハネ福音書13章1-15節
過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
最期の食事をともにしたイエスの愛
今日の聖木曜日主の晩餐の夕べのミサを、今、私たちは捧げています。けれども、特にこの教会は、この晩餐のミサが意義深いのではないかなと思います。というのは、この祭壇の向こう側に、最後の晩餐のモザイクは大きなモザイクがかけられてあって、私はほぼ毎日これを眺めて
【ミサ説教】マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」
マタイ福音書27章11-54節「おそれに振り回されないで」2026年3月29日受難の主日防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエスが十字架にかけられた背景には、人々の強い恐れと不安がありました。既得権益の喪失や社会の崩壊への不安が、弟子の逃亡、ユダの絶望、ピラトの責任回避、群衆の暴走を生んだと言えます。一方で、キレネのシモンや百人隊長のように恐れに巻き込まれなかった者は、十字架の意味を見つめることができました。恐れに支配されれば人はイエスを加害した側に回ります。だからこそ、困難の中でも振り回されず、神と共に歩む姿勢が問われているといえるでしょう。
祝700話!今回の音声は、お説教からです。
福音朗読 マタイ福音書27章11-54節
11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキ
【ミサ説教】ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」
ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」2026年3月16日カマのミサ旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころヨハネ4章の癒しは、離れた場所にいる人にもイエスの言葉が届くことを示しています。ここで問われているのは奇跡そのものではなく、その言葉を信じる信仰です。現実が厳しいと人は信じることが難しくなりますが、信じることは未来への希望を持つことでもあります。イザヤ書が語る新しい世界の約束のように、現実を認めつつもそれを超える神の愛を信じて歩むことが、私たちに生きる力を与えるのです。
本物の気功師さんに治療したもらいたいA次郎です
福音朗読 ヨハネ福音書 4章43-54節
(そのとき、イエスはサマリア)を出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。
離れていても届くもの
今日の文章はヨハネの4章イエス様の癒しのお話ですが、このカファルナウムの王の役人というんですが、これと同じかどうか分からないですけれど、マタイのファッションに出てくる百人隊長のしもべの癒しとの話ではないかという説もありますけれども、ちょっと微妙に違っていて。そうである人とそうでないという人はいるのですが、まあ共通点は何かと言ったら、離れている人を癒しているってというんですかね、その場にいない人をイエス様は癒しているということなんですけど、イエス様の癒しのやり方はそれぞれで、いろんなやり方があるんですけれど。離れている人に対しても、イエス様は癒やすことができるというのもなかなかすごいなと思いますが。
日本の気功、気功師、本物の気功師というのは、実は離れていても癒せるんですよね。この気功で癒す人です。私の知り合いにもいるんですけど、一人ですね。びっくりしますけど、気功して地球の裏側に行っても癒されるんですよね。この気を飛ばして。気功師の本物か偽物かの区別は、やっぱり遠
【ミサ説教】ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」
ヨハネ福音書9章1-41節「神の業を見出す」2026年3月15日四旬節第4主日ミサ防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころヨハネ福音書9章の生まれつき目の見えない人の癒しは、単なる奇跡の物語ではありません。人々は不幸の原因を過去の罪に求めようとしますが、イエスはそこから神の業が現れる未来へ目を向けさせます。盲人は癒された後、共同体から追い出されるという困難を経験します。その後の過程の中で再びイエスと出会い、信仰の目が開かれたのです。癒しと救いは一度きりの出来事ではなく、長いプロセスの中で深まります。神の業は目立つ奇跡だけでなく、人と人とのつながりの中に静かに現れていくのです。
東日本大震災から15年。釜石教会でのお茶っこサロンも15年も続いているんですね。
福音朗読 ヨハネ福音書9章1-41節
1〔そのとき、〕イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5わたしは、世にいる間、世の光である。」6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼
【ミサ説教】ヨハネ福音書4章5-42節「心の穴」
ヨハネ福音書4章5-42節「心の穴」2026年3月8日四旬節第3主日ミサ防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころヨハネ福音書のサマリアの女の物語は、人の心の渇きを示しています。彼女は多くの男性との関係の中で満たされない心の穴を抱えていたが、イエスとの出会いによって「生きた水」を知りました。人は誰でも心に穴を持ち、それを愛や仕事、酒など様々なもので埋めようとするが本当には満たされません。山頭火の生き方もその一例といえます。イエスが与える生きた水、すなわち聖霊の恵みと真実に生きる道によってこそ、心の穴は塞がれ、渇きは満たされるのではないでしょうか。
今回も山頭火のお話の続きがあるにゃ
福音朗読 ヨハネ福音書4章5-42節
5〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいま
【ミサ説教】マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」
マタイ福音書17章1-9節「神の声に耳を澄まそう」2026年3月1日四旬節第2主日ミサ防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ四旬節第2主日に朗読される主の変容は、十字架前に弟子たちへ復活の希望を示す出来事です。ペトロは仮小屋を建てようとしますが、父なる神は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と告げます。大切なのは記念や形ではなく、キリストの生きた言葉に耳を傾けること。騒がしい現代社会の中でこそ、教会と祈りを通して神の声を聞き、洗礼を受ける人も周囲も信仰を深めていくよう招かれています。
神父さんが山頭火が好きだなんて初耳だっったにゃ。(ラーメン屋さんに「山頭火」という店が多いのはなぜだろう)
福音朗読 マタイ福音書17章1-9節
1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
神の声に耳を澄まそう
四旬節の第2主日は毎年必ずそうなんですが、主の変容のところを必ず朗読することになっています。イエスは3人の弟子だけを連れて、高い山、タボル山かヘルム山かどっちかと言われていますけど、そこに登った時に、イエス様が生きている間にちょっとだけ神様の姿を現すというんですかね、特別にいつも普通の人間に、人間として生きている時は過ごしておられましたが、この時だけは特別に神様の次元を特別に示されるんですよね。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そして、旧約の預言者とお話をするとですね、ちょっと神秘的な姿を垣間見せた。これは多分、やはりイエス様が十字架にかかって苦しまれる時に、弟子たちが希望を失わないように、あらかじめ復活したイエス様の姿をあらかじめ見せられたのではないかというふうに思えます。
でも、それに対してペトロは、だいたいそれを見た3人とも、あまりの光景でちょっと驚いてしまって、どうすればいいか分からなくて、ペトロは仮小屋を3つたてましょうと。あなたのためモーセのため、エリアのため、何かちょっと祈る場所というか、記念すべき所を作ったらどうですか?みたいな感じで言うわけですよね。何かやっぱりちょっと特別なことがあったら、何か形にして残しておかないともったいないとペトロが思ったのかもしれない。でも、その後、雲が現れて見えなくなって、父なる神様の声がして、イエス様はですね、イエス様のことを神様の愛する子であって、心にかな
【ミサ説教】マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」
マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」2026年2月16日カマのミサ旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ人は神のしるしを求めますが、大切なのはそれをどう受け止めるかです。奇跡だけでなく、喜びも試練もまた神からのしるしです。ヤコブの手紙は、試練を喜びとし、貧しさも富も信仰を深める機会だと語ります。恵みは与えられていても、受け取る心がなければ実りません。日々の出来事を神のしるしとして受け止め、成長の糧にする姿勢が求められています。
宝くじ、買おうと思っていたけど・・・
福音朗読 マルコ福音書 8章11-13節
(そのとき、)ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
しるしをどう受け止めるか
今日のイエス様のお話は、しるしというユダヤ人は特に神様からのしるしをしるしというのは、何か奇跡的な何か出来事みたいなことですけど、そういうものを求める、そのような体質というものがあったような感じですね。一番大きなしるしは、このユダヤ人のもっとまた前の話ですけど、エジプトで奴隷状態になっているところからモーセという預言者の導きによって約10ぐらいには渡る様々なしるしというんですかね、いろいろあって、それでエジプトから解放されたということがあって、そこから非常にしるしを大事にしていたということはあるんですけれども、ただ、ここでですね、このファリサイ派の人々って、イエス様と対立する人々ですけど、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めたっていうから、何かちょっとしるしの求め方がおかしいっていうか、それでイエス様がしるしを与えられないと、今の時代の人々にはあったことをはっきり言うわけですね。
だから、イエス様、実はこの読んだのがマルコの11章なんですけど、この前の話かなにかと言ったら、4000人の人にイエス様が7つのパンを裂いて渡して、みんなが満腹したって、まさしくそれは大きなしるしなわけで、イエス様は大きなしるしを実際行っているわけですけれど、でも結局、しるしをどう受け止めるのかという、この人間の心っていうか、それが結局、信仰ということになるんですけれど、神様のしるしがあって、それを私たちがそこを通して神を信じて、そこから何かこう何かこう恵みを得て成長していこうとするかっていうしるし、プラスそれを受け取る側の人間の態度と両方がやはり合わないと、実際ダメなんですよね。
ここで村の人々がしるしを求めていたら、何かイエスにケチつけるために、イエス様のやっていること、今でも本当かどうかわからないですけど、いろんな奇跡的なことをやる人がいたら、だいたいみんなインチキだとか手品だとかいう、まあそれはそれを信じるか信じないかで全然話が違いますけれども、いろんな時々は新興宗教の教祖みたいな人ってのはびっくりするぐらいなことする人、時々いないでもないんですよね。特にインド系のね。なんかの人は。だいたいそれはなんか結局ネットがネットか何かで流れたらインチキだとか嘘だとか、それをどう受け取るかあったことの問題になるわけですよね。
【ミサ説教】マタイ福音書5章17-37節「律法の完成とは」
マタイ福音書5章17-37節「律法の完成とは」2026年2月15日年間第6主日防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエスは律法を廃止するのではなく「完成する」と語りました。それは細則を守ること以上に、律法の根本にある愛を満たして生きることを意味すします。法律や習慣を盾に人を裁くのではなく、神と人を愛する心で日々の小さな行いを丁寧に行うこと。森のイスキアの、故佐藤初女さんの実践のように、食事を作り、話を聴くという平凡な営みを心を込めて行う時、律法は本当に完成するのだと思います。
初めさんのおにぎりは美味しそうだったなあ。
福音朗読 マタイ福音書5章17-37節
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
《17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》
20 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」
《「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」》
27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
《29 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》
33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」
《「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足
【ミサ説教】マタイ福音書5章13-16節「暗闇をあまねく照らす光」
マタイ福音書5章13-16節「暗闇をあまねく照らす光」2026年2月8日年間第5主日防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエスは、弟子であるあなた方“そのもの”が光だと告げています。物や制度(麦わら)をいくら積んでも心は満たされません。必要なのは暗闇を消す光。政治や経済には限界がありますが、私たちには神の光で心を満たし、小さな灯でも周囲を照らし分かち合っていきましょう。
今日の王様のお話は初めて聞いたにゃー
福音朗読 マタイ福音書5章13-16節
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
暗闇をあまねく照らす光
今日は山上の説教の8つの幸いの続きです。最初の最初の頃ですけれども、あなた方というのは弟子たちですけれども、世の光である地の塩であるというふうに言うわけですけれども、それを私たちも何か心がけたいと思います。
当時はですね、やはり塩というのは非常に貴重なものでした。
日本みたいに海から取るのではなくて、岩塩というか、土の中からいうかですね、非常に貴重なものでしたし、光もやはり今みたいにどこでも電気が通っているわけではなかったので、塩にしろ光にしろ、非常に貴重な、しかも大切な、そのようなものであるということを私たちに呼びかけているわけですね。
ちょっとお話をすると、昔、昔のある国に非常に立派な王様がいて、そしてその国を治めていたんですね。だんだん年をとってきて。息子が二人いて、長男と次男と二人いてね、そのどちらかに自分の後を継がせたいというふうに思ったんですけど、そのお兄さんも弟も両方とも立派で甲乙つけがたいような息子だったんですよね。
ある朝、大広間にその二人とそれで他の家臣たちですよね、家来たちをみんな集めて。それでこの二人の王子にですね、こう言ったんですね。
日が暮れるまでに一人一人にどうか10枚ずつを与えるから、それを使って、もし使わなくても。それでこの広間をですね、何でもいいから、王様の宮殿だから、大きい広間があって、広間をいっぱいにしなさいと。
その何かを手に入れてきて、それでそれを見て、そのいっぱいにできるかどうかというところを見てですね、どちらに継がせるか、王位を継がせるか決めると言って、それで二人の王子が外に出て行ったんですけど、お兄さんの方はまあ町や村をちょっと歩きながらちょうどですね、麦を収穫する時だったんですね。小麦とか大麦を収穫する時。で。それでまあ農業をやっている人たちが働いているのを見てですね、それで麦は取れば茎のところはいらないわけですよね。で、脱穀をしていて、それでこの茎がいっぱい麦わらと茎がいっぱいあって、それでそれを見て王子が農業をやっている人に麦を取ったその茎の方ですよね。麦わらの方をくれないかと。当時はまだ
マタイ福音書5章1-12a節「前を向いて歩く幸い」
マタイ福音書5章1-12a節「前を向いて歩く幸い」2026年2月1日年間第4主日防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエスの「心の貧しい人は幸いである」とは、満たされた者ではなく、不安や病、行き詰まりを抱え、必死に救いを求める人々への慰めの言葉です。心の貧しさとは心細さそのもので、そこにこそ神の力と愛が働く余地があるのです。弱さや欠けの中で神は人を支え、「前に進む」力を与えるのではないでしょうか。
「心が貧しい」は「心細い」こと。「幸い」は「前を向いて歩く」こと。
福音朗読 マタイ福音書5章1-12a節
1〔そのとき、〕イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12a喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」
前を向いて歩く幸い
今日の福音は、マタイの保障、この山上の説教、山上の説教の一番最初のところにあたりますけれども、8つの幸いと言って、ある意味かなり有名なところであろうと思います。特に最初の冒頭のところですね、心の貧しい人々は幸いであるというよく分からないところから。この8つの幸いが始まるんですが、およそ私たちの考える幸いとか、幸福と、やっぱりイエスさまの考えている幸いと幸せと、やっぱり大きく違うなというかですね、それはびっくりするぐらい何か違うような気がします。
心の貧しい人々は幸いであるというんですけれど、普通そう考えないですよね。
心の豊かな人が幸いと言うのが、私たちの考える当たり前のことで、まあ、ぼろは来てても心は錦とか、持っているものは貧しかったとしても、心が豊かであれば人間は幸せであるという考えるわけですよね。それが普通なんですけど、心の貧しい人は幸いって言うんだから「ええっ?」て言うか、何でかと疑う気持ちが湧いてきても当然だと思いますけれども。
実際のところ、ここに集まってきた人々はどういう人々かといったらですね、その時イエスは群衆を見て、山に登られた、群衆というのは何かと言ったら、この今日の朗読の4章の終わりにあるんですけれど、イエス様の癒しの業とか、イエス様のこの華々しい活動を見聞きてっていうか、話を聞いた人々が、この、イスラエル中からって書いてあるんですけど、デカポリスとかエルサレムとか、全然遠いところから多くの人々がイエス様に集まってきたんですよ。だから群衆になってて。
カファルナウムのシナゴーグ会堂というのは、これとほぼ同じかな。大きさとして、これよりちょっと広いぐらいも
【ミサ説教】マタイ福音書4章12-23節「従った理由」
マタイ福音書4章12-23節「従った理由」2026年1月25日年間第3主日防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ無名のイエスに最初の弟子たちが網や舟を捨てて従ったのはなぜでしょう。彼らは闇の只中で「大きな光」を感じたからです。現代も人は不安や空虚の中で擬似的な光(推し活や流行)に引き寄せられますが、真の救いにはならないでしょう。聖イグナチオが世俗的栄光から回心したように、イエスこそ消えない喜びを与える光です。その光を見分け、日常で生きる力とし、分かち合うことが求められているのではないでしょうか。
『The Chosen – 選ばれし者』の動画は、今でも動画配信しているサブスクリクションで見られるようですね。
福音朗読 マタイ福音書4章12-23節
12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
15「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20二人はすぐに網を捨てて従った。21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
従った理由
今日の福音書は、ヨハネの4章の真ん中あたりですけれども、とうとうイエス様がこの福音宣教というか、メシアとして活動を始めるところのところが朗読されました。
イエス様が悔い改めよ、天の国は近づいたと、カファルナウムの町で宣言して、そして最初にした彼の活動は何かといったら、弟子を選ぶというですね、今日は4人の弟子を選ばれるわけですけれども、ちょっとここを読んで、何て言うんですかね、このイエス様も、まあ、何でこの4人を選んだのかということを疑問がありますが、でもこの4人の、若かったか中年だったか、ペトロはもう中年だっただろうと思われますけれども、兄弟ヨハネの方は、まあちょっと若かったかもしれないですけど、イエス様に呼ばれて網を捨てたりとか、舟と父親を残してイエスに従ったという、どうもちょっとびっくり、びっくりなんですよね。
イエス様が有名だったら、それは従って行こうと思うかもしれないですけれど、まあ、活動を始めたばかりの全く無名の人だったわけで、イエス様は。突然私に従えと言って、普通はちょっと従えないんじゃないかと思いますけれども、この弟子たちは何を思って従ったのかというのは、実はちょっと謎ではあります
【ミサ説教】マルコ福音書 2章18-22節「新しいぶどう酒を受け止める」
マルコ福音書 2章18-22節「新しいぶどう酒を受け止める」2026年1月19日カマのミサ 旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエスの「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、古い慣習や安心にしがみつく人間の姿を突きます。人は慣性で生き、変化を嫌うが、福音は常に人を揺さぶり、変わるよう迫ります。新しさは異質な出会いや出来事から来るのではないでしょうか。障害者への合理的配慮や釜ヶ崎での体験は、視点を変え、人を新たにする恵みの場です。古い袋に固執せず、新しい革袋として生き直せるかが問われています。
「いやしのミサ」は「カマのために祈るミサ」になりました
福音書朗読 マルコ福音書 2章18-22節
(そのとき、)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
新しいぶどう酒を受け止める
今日はマルコの福音書のイエス様の説教のところですけれども、この新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる、入れなさいという有名な言葉なのですが、この頃はまだガラス瓶がなかったので、プラスチックももちろんないですし、ガラスもない時代ですから。だから、ぶどう酒は樽に入れるか、樽に入れて運ぶのものですから、運ぶ際には革袋に入れて運んでいたわけですね。なかなか日本じゃほとんど見ないですけれど、スペインなんかに行ったら、ちょっと前までぐらいは使っていたんじゃないかと思うのですが、しかし、革袋もだんだん古くなってきてね。そうすると、新しいぶどう酒を入れたら革袋が破れてしまうようなことがどうもあったみたいですね。
だから、古いぶどう酒ならば、古い革袋に入れることができたわけですけれど、新しいぶどう酒を作ったら、やっぱり新しい革袋に入れなきゃならないという、そういう習慣があったみたいですよね。
新しいぶどう酒と新しい革袋、古いぶどう酒と古い革袋ということですけれども、結局どういうことか。
この新しい革袋と新しいぶどう酒というのは、イエス様が述べた新しい教え、福音的なものであって、この古いぶどう酒と古い袋というのは、旧約時代の、ここで言ったらファリサイ派の人々とか律法学者の人たちの世界を表しているように思いますね。
でも、なかなかこの、何というんですか、つくづく思いますけれど、人間には、人間には慣性の法則があるんですよね。何か繰り返して知ったことが身についているというか。だから、今までどおりにやるのがみんな一番楽いうか、一番心地がいいというのかな。
だから古いものを、だからだいたいあんまり変わるのが良くないというか、変わることがあんまりみんな好みではな
【ミサ説教】マタイ福音書3章13-17節「天が開くとき」
マタイ福音書3章13-17節「天が開くとき」2026年1月11日主の洗礼のミサ 防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受けた時、天が開き、神の愛と聖霊が注がれた。これは神と人間を隔てる壁が開かれ、私たちも神の子として愛されていることを悟る恵みが始まった出来事と言えるでしょう。悩みや執着に囚われると心は閉じてしまいますが、神の温かさに心を向ければ自然と殻は開くでしょう。
北風と太陽のお話は神父様の定番。とてもわかりやすい例だよね。
福音朗読 マタイ福音書3章13-17節
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
天が開くとき
今日の福音書は、イエス様が洗礼を受けられた。今の私たちの洗礼ではなくて、洗礼者ヨハネの洗礼を受けられて、ヨルダン川の川に、あまり大きな川ではないですが、そこに浸礼と言って頭からザブンとなるような、そういう洗礼を、体全体を水に浸すような感じで、それは当時の人がそのようにされていたわけですけれども、その後にイエス様だけ特別に、ここから不思議なんですが、天が開いた。
天がイエスに向かって開いたと書いてあるわけで、天が開くというのがちょうど私たち空を見ていても、別に空の向こうに何にもないというか、別に空は宇宙につながっているだけで、別に何か閉じているということは実際にないわけなんですけど、でも古代の人は天は閉じていて、天のこっち側が人間と自然の世界で、天の閉じている向こう側が神様の世界と分かれていると考えていたから、その影響でこのような表現になったのでしょうと思われます。
けれども、イエス様が洗礼を受けた時に、この天というか、神様と人間を隔てているからというか、壁というか、それが神ひらいて、そしてイエス様の上に、この聖霊の恵みと愛する神であるという御父の声がしたということですね。
これは非常に意義深いことだと思いますけれども、イエス様はこの洗礼を通して、神と人間とを隔てている壁が開いたというかですね、私たちも天が開いている、つまり神様と私たちが交わりの中で生きていくことができる。その恵みをイエス様が開いてくださった。開いたらどうなるかといったら、神の愛がイエス様に注がれていて、愛する子である神様の愛し方であるということをイエスが悟った。
結局、私たちもイエス様の洗礼の以降、私たちも開いて、神様に開いて、そして神様から愛されている神の子であるということを、私たち一人一人が悟ることができる。
その恵みが与えられていると言えると思いますね。
ただ、私たちは神様のことをつい忘れがちですから。
天が閉じ
【ミサ説教】マタイ福音書2章1-12節「夜に星を見、昼に歩く」
マタイ福音書2章1-12節「夜に星を見、昼に歩く」2026年1月4日主の公現のミサ 防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ東方の三博士は星に導かれながら、世間の常識に引きずられて一度は間違ってしまいました。星は夜にしか見えず、行動できるのは昼という時間差が迷いを生むのです。信仰で最も大事なのは、夜に星(神の導き)を見出すこと、次にそれを昼の現実で実行すること。多くの人が星を見ても歩かない中、博士たちは歩き、幼子イエスに出会い、生き方を変え、世俗ではない「別の道」を選びました。信仰とは、見て、歩くことの両立でしょう。
東方の博士には、どんな背景があったのでしょうか
福音朗読 マタイ福音書2章1-12節
1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
夜に星を見、昼に歩く
この公現の祝日には、東方の三博士のところが必ず朗読されます。東方の三博士、彼らが異邦人の代表としてイエス様のところに拝みに行って、そして救い主イエスと出会うことができた。それを今日のこの祝日はお祝いしているわけですけれども、イエス様の誕生の場面でいろいろな人が登場しますが、私が一番不思議というか、なんというか、考えさせられるのが、この東方の三博士ですね。
この東方と言うから、ペルシャかバビロニアか、いわゆるアラブ人の地方で、まだイスラム教が流行る前ですから、ゾロアスター教かはちょっとわからない宗教の人たちだったと思うのですが、何で星でわかったのかということがちょっとびっくりですけれどもですね。
今はちょっと明かりを灯すようになっちゃったから、あんまり星が見えないんですけど、昔は夜になったら真っ暗でしたから、満天の星をみんな眺めていたわけですが、その満天の星の中でメシアが生まれたしるしの星というのを見分けられたということが、まずちょっと不思議というか。当時の人々はやっぱり今のよ
【ミサ説教】ルカ福音書2章16-21節「おそれを超えて信じる心」
ルカ福音書2章16-21節「おそれを超えて信じる心」2026年1月1日神の母聖マリアのミサ 防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころマリア様は出来事をすぐ理解せずとも、すべてを心に納め思い巡らした。その姿勢こそ平和の出発点である。現代の分断や戦争の根には恐れと不安があり、右派と左派でも恐れの対象が異なる。自分と他者の心の奥にある恐れを見つめ、その恐れを超えていくには、神様に対するもっと深い信頼が必要なのです。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
福音朗読 ルカ福音書 2章16-21節
(そのとき、羊飼いたちは)急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、(彼らは、)この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
おそれを超えて信じる心
今日は神の母聖マリアの大祝日に当たっています。このイエス様が誕生した直後に、天使たちは天使に導かれた羊飼いたちが礼拝に来て、そしてそこにいた人々は羊飼いたちの話を聞いてね。それは天使が現れて導かれた、そういう話だったと思いますけれども、それを非常に不思議に思ったというふうに記しています。
みんなはただ不思議に思っただけで、それ以上深く考えなかったかもしれないですけれども、小さな幼子ですし、その子がどうなるとか、あまり深く考えなかったと思うのですが、しかし、しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心におさめて思いめぐらしていたというふうに書かれていますね。
マリア様だけがたぶんこの出来事、あるいは羊飼いたちの話を心におさめて、それを思い巡らしていたということですよね。
やはり大事なのは、私たちは心が大事というかですね、私たちの様々な出来事や何かがあった時に、どのように自分の心にそれを納めて、その心の中に実際どういうものがあるのかということをよく見つめるというのがですね、すぐ思い巡らすというふうにありますから、マリア様ももうすぐ何か分かったとか、答えが出せたとか、そういうわけではなかったでしょうけれども、自分の心にあるものをしっかり受け止めておられたということですね。
今日は世界平和を祈る日ですけれども、私たちがやはり本当の意味でこの平和を築いていこうとする時にですね、やはりこのマリア様のように、心の中に何があるのかということ、それをしっかり私たちは見つめていく必要性がやはり一番あるんじゃないかなと思います。
というのは。戦後今年81年になるんですけれども、やはり平和がどんどんなくなっているということは間違いないでしょう。世界レベルでの戦争も終結していないわけですし、ウクライナのこととまあ、ガザのこともちょっと落ち着いていますけれども、実際ちょっとどうなるか分からない感じですが、あるいはやはり私たち人々の間の中でも、やはり分裂というか、政治的なことを考えても対立がいろいろ進んだりしているわけですよね。
どこ
【ミサ説教】マタイ福音書2章13-15節、19-23節「辛い時にこそ共に歩む」
マタイ福音書2章13-15節、19-23節「辛い時にこそ共に歩む」2025年12月28日聖家族のミサ 防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ聖家族が幼子イエスを連れてエジプトへ逃れた出来事は、政治的迫害下の難民として生きる過酷な出発点でした。言葉も縁もない地で、マリアとヨセフは必死に協力し、信仰と愛によって家族の絆を深めた。危機は家族を分断も結束もさせるが、聖家族は共に歩む模範を示しました。現代の災害や不安定な社会においても、家族や共同体と支え合い、信仰をもって歩んでいきましょう。
皆様今年もありがとうございました。次は新年のミサです。
福音朗読 マタイ福音書2章13-15節、19-23節
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
辛い時にこそ共に歩む
聖家族の祝日に読まれるのがこのマリアとヨセフ、幼子イエス様がエジプトに逃げたというか、避難したというか、そういうエピソードです。この3人がエジプトに逃げたという、何というんですかね、どんな生活をしていたかってことを考えると、ちょっと胸が締め付けられるような気持ちにもなりますけれども、マリアにしたら、生まれたての赤ん坊を連れて外国に逃亡しなきゃならないという。ヨセフにしてみても、全く知らないところで、外国で言葉も通じないところを突然家族で行かなきゃならなかったというのは、その苦労たるやどんなものだったのか。現代でいうところの難民みたいな、実際の難民ですけれど、政治難民ですから。
一時シリアからたくさんの人が逃げたりですね。残念ながら今のガザは封鎖されているから、難民にもなれないという大きな苦しみがありますけれども、でも、この若い夫婦が小さな子どもを連れて海外に行かなきゃならない。どれほどの苦労の中でイエスさまを育てなきゃならなかったのかという、ちょっと想像を絶しているところがあるんじゃないかというふうに思います。
幸いなのは、ヨセフは大工でしたから、文系の仕事だったら言葉が通じないからできないんですけれど、職人だったので、ある程度落ち着いてからはある程度の収入を得る仕事に就けたであろうと思いますが、ただ、エジプトに多分ユダヤ人のコミュニティーは確かにあったと思うんですが、そこに入れたかどうかがわからない。
つまり、ヘロデから暗
【ミサ説教】ルカ福音書2章1-14節「小さなわたしの捧げもの」
ルカ福音書2章1-14節「小さなわたしの捧げもの」2025年12月24日主の降誕夜半のミサ カトリック防府教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエスは馬小屋で、飼い葉桶に寝かされて生まれました。宿に泊まれず、寒さや食べ物に困る状況だったため、野宿の備えを持つ羊飼いたちが天使に招かれたのでしょう。彼らは毛布や食べ物を分け与え、聖家族を助けました。クリスマスとは、困っている人のしるしに気づき、自分の小さな持ち物や親切を差し出す心を大切にすることではないでしょうか。
子どもたちがたくさん参加しているミサです
福音朗読 ルカ福音書2章1-14節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
小さなわたしの捧げもの
せっかくですから、今日は子供たちがいっぱい来ているので、子供たち向けにお話をしましょ。イエス様がどこで誕生したのか、どこで誕生しましたか。馬小屋、馬小屋、ここに馬小屋があるでしょう。イエス様が寝ていたのはどこでどういうところに?
飼い葉桶で寝てたんだよね。これはちょっと飼い葉桶じゃないけど、あれがキラキラしてきれいに飾っているけど、これ飼い葉桶じゃないんですよね。ちょっとイエス様に尊敬の気持ちを持ってこうしているんですけど、解剖家って何なんですか。
飼い葉桶って。
そうそうそう。飼い葉桶っていうのはバケツなんですよね。バケツで餌を入れて、動物が食べる。家畜が食べる餌、干し草だと思いますけど、入れているバケツなんですよ。これ、どう見てもバケツじゃないけど、本当はバケツなんです。バケツの中にイエス様が寝ていたって言うんですよね。
それで誰がそこに招かれたか、誰がこのイエス様を拝みに招かれた?
朗読であったでしょう。今、誰が、誰たちが招かれたの?この時。
そうそうそう。羊飼いだよね。聖劇をやったでしょう。幼稚園でね。羊飼いたちが招かれたんです。
ちょっとよく見えないかな。後ろの方に羊飼いたちがいるんですけど。
じゃあ質問なんですが、何で羊飼いが招かれたか。
天使が、天使が出てきて来なさいって言
【ミサ説教】マタイ福音書21章23-27節「イエスの権威とは」
マタイ福音書21章23-27節「イエスの権威とは」2025年12月15日ミサ旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころイエスの権威は学歴・資格・地位といった人間の肩書ではなく、神から直接来るものだった。だから弱い者を癒し、助け、赦す力として働いた。一方、人間の権威は金と力で社会を動かし、常に弱者を犠牲にする。釜ヶ崎では行政主導の再開発や資金流用が進み、貧しい人が切り捨てられつつある。今こそ人の権威ではなく神の権威に立ち、神の国が現実に働くよう祈り行動できるよう恵を願いましょう。
これからは「いやしのミサ」ではなく、「カマのミサ」として、釜ヶ崎のために祈るミサとなります。
福音朗読 マタイ福音書 21章23-27節
(そのとき、)イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
イエスの権威とは
イエス様の活動、言葉、それに対して宰相や民の長老、いわばイエス様に敵対している勢力というか何かが、何の権威でこうやっているのか、誰がその権威を与えたのかということを問うわけですけれど、結局、イエス様というのはこの世の権威がなかったんですね。これの権威でないかと言ったら、学歴ですよね。いい大学を出たとか、あるいは何かいい仕事をしているとか、良い資格を持っているかですね、何とかかんとか、いろいろそういう、でもイエスさんは全く資格がないんですよね。
神父じゃないとか、祭司じゃない、職業的な、いわゆる宗教家じゃないんですよ。神父さんだったら。一応それは資格というかもう神学校で勉強して、司教さんにされてなっている資格があるわけですけど、イエス様は普通のカトリック用語で言ったら平信徒なんですよね。
有名なラビについて何か勉強しましたってこともないんですよ。お金もないし、地位もないし、実は何にもないんだけれども、人々がそこに集まっていて、イエスの話を聞いた。それは、イエス様の権威というのは、神から来ているからしかあり得ないですよね。
人からの権威というのは、そうやって資格とか何か肩書とか何とか、この人は弁護士だなとかと言ったらそれでいいのか、あるいはあれがあるし、大学の先生だってそれなりのあれですけど、イエス様は全く何にも何もない。それはもう神の権威でしかないわけですけど、でもやはり多くの場合、この私たちは神の権威をなかなか認めないで、結局人の権威ばかり認めているという、人の権威あるところに、権力ももちろんありますから、お金があって経済とか政治を動かすのは、だいたい権威がある人しか動かせないわけですけどね。
だけど、主イエス様は全く違う神の権威で生き
【ミサ説教】マタイ福音書11章2-11節「神の恵みを思い起こそう」
マタイ福音書11章2-11節「神の恵みを思い起こそう」2025年12月14日待降節第3主日ミサ カトリック防符教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ洗礼者ヨハネはメシア到来の準備のため遣わされたが、投獄され不安の中でイエスに問いを送った。信仰者も疑いや戸惑いを抱くことは自然であり、大切なのは神の恵みを「見聞きし、思い起こす」こと。人間的立派さより、恵みの世界に生きる幼子のような素直な信仰が神の国にふさわしいのです。
洗礼者ヨハネにも「疑い」があったんだろうか?
福音朗読 マタイ福音書11章2-11節
2[そのとき、]ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6わたしにつまずかない人は幸いである。」
7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
神の恵みを思い起こそう
待降節の第3主日でも、大体この洗礼者ヨハネのお話が続けて読まれることが定番になっています。ヨハネが今度は牢の中に入るお話ですね。洗礼者ヨハネは、今日の福音書にあるとおり、準備するですね。メシアが来る前の準備として遣わされていた預言者以上の者であったわけですけれども、預言者はですね、結局、神様から聞いた言葉を人々に伝えなきゃならない。一般庶民の人にもそうですけれども、やはり権力者に対して間違っているのは間違っていると言いに行かなきゃならないんですね。だから、ヘロデ王に対して結婚が間違っているとわざわざ言いに行ったので、それで結局、怒りを買って牢獄に入れられてしまったわけですね。
イエス様に洗礼を授けたけれども、結局、イエス様の活動を彼は見ることができなかったわけですね。マタイの福音書では、ヨハネが逮捕された後、イエス様が活動を始めるということになっているので、入れ替わりになるわけですね。牢獄の中で、弟子たちを送って、イエス様のところに質問に来るわけですが。イエス様に洗礼された時に、イエス様のことをメシアだとある程度思ったと思われますけれども、ヨハネの福音書によると、見よ神の子羊だ、とか言ってですね、ちゃんと信仰告白をしているように見えますが、でも、イエス様の活動を、公の活動を何一つ見ていないので、やはり不安というか、何か心配なことが彼の中にある戸惑いが湧いてきて、そしてイエス様のところに弟子を送って確かめさせるということをしたと思うんで
【ミサ説教】マタイ福音書3章1-12節「荒れ野で生き方を立て直す」
マタイ福音書3章1-12節「荒れ野で生き方を立て直す」2025年12月7日待降節第2主日ミサ カトリック防符教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ私たちは忙しさに追われて心が乱れると、「荒れ野」に放り出される。でもそこで生き方を見直すと、まっすぐな生き方が見出せるでしょう。「荒れ野」は自分を整えるチャンスです。
お話の中の神父さんは故三浦功神父さんにゃ。
福音朗読 マタイ福音書3章1-12節
1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
荒れ野で生き方を立て直す
待降節の今日は第2主日になりますけれども、第2主日は伝統的に洗礼者ヨハネの活躍というか、言動のところが読まれるということに毎年なっています。今年はマタイの洗礼者ヨハネの箇所ですけれども、彼の役割は、イエス様の救いの前にそれを準備する役割があったのですけれども、彼は典型的な旧約からの預言者で、大体住んでいるところが荒れ野というですね、普通はみんな町の中に住んでいるわけですけれども、預言者は特別な使命があるから荒れ野といって、およそ人が住めないような荒廃したところでワイルドなんですよね。この、ラクダの毛衣をきて、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていたというから、相当ワイルドな感じですけれども、彼がそこにいて、そしてやはり悔い改めですよね。罪を悔い改めて、清めのための洗礼を授けていた。だから町にいる人々も多く、わざわざ歩いて荒れ野まで行って、荒れ野と言ってもヨルダン川の流れているところだから、お水があるのでそこで洗礼を授けていたというわけですね。
多くの人がそこに来たということは非常に不思議な気がします。やっぱり当時の人は何らか自分の中でもやもやしているものがあって、それでやはり洗礼者ヨハネのところにわざわざ荒れ野まで歩いて行って、そこで何か清めのものを清めてもらうような気持ちが、何か心を引き締めるためにそういうことが必要だったのかもしれないですね。
私たちはクリスマスの前に
【ミサ説教】マタイ福音書24章37-44節「最悪を想定し、最善を尽くせ」
マタイ福音書24章37-44節「最悪を想定し、最善を尽くせ」2025年11月30日待降節第1主日ミサ カトリック防符教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ目を覚ましているとは「最悪を想定し、最善を尽くせ」ということでしょう。私たちの人生にとって本当の最悪は多くは「死」であるかもしれません。いつ死が訪れてもいいように備えながら、一番最高のもの、神の恵みを受け止めていけるように待降節を過ごしていきたいものです。
もとの言葉は”I am prepared for the worst, but hope for the best.”
福音朗読 マタイ福音書24章37-44節
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕37「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
最悪を想定し、最善を尽くせ
今日が待降節の第1主日で、イエス様の誕生の準備が始まる主日です。この待降節の第1主日というのは、イエス様の誕生よりもむしろイエス様の再臨ですね。世の終わりにイエス様がもう一度この世界に来られるというですね、11月の死者の月の流れで、世の終わりとイエス様の再臨のところがだいたい朗読されるように決まっています。
そして今日はマタイの24章ですが、まさしくそのような箇所だったわけですね。あなたがたも用意してみなさいと。人の子は思いがけない時に来るからであるというふうにイエス様が言っておられます。やはり突然イエス様が来られるので、ちゃんと準備をしているように特に目を覚ましていなさいとか、用意していなさいということをイエス様は言われるわけですね。
世の終わりには様々な混乱や、今もその予兆かどうか分からないですけれども、地震とか戦争とか疫病とか、あるいはキリスト教に対する迫害とか、そのようなことが非常に厳しいことが起きると、その果てにイエス様が天から来られるという、そのことを語っていて、だからこそ目を覚ましていなさい、準備していなさいということを言うわけですね。
でも、具体的には、私たちは目を覚ましているとか、準備するとかですね、それは具体的にどういうことを意味しているのかということですよね。目を覚ましていなさいと言っても、やっぱり夜はちゃんと寝なきゃならないし、なんて言うんですか、このいつも気を張っているわけにもいかないわけですけれども、この準備をしておくということのもっと具体的なことは何かと言えばですね、これが分かりやすいんじゃないかと思うのですが、日本語のことわざにも、ことわざまでなっていないですけど、こういう言
【ミサ説教】ルカ福音書23章35-43節「王の力」
ルカ福音書23章35-43節「王の力」2025年11月23日王であるキリスト カトリック防符教会ミサ
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ真の王、キリストの力、私たちの魂の中に王の力が働くと、自分自身に秩序が生まれ、自分自身から力が湧いて豊かになります。そして本当の王が生まれるためには一度王は死ななければならない。自分自身の人生で、イエスの死と復活に与ることが信仰生活で最も大切なことではないでしょうか。
英神父さんの怖い夢のお話。
福音朗読 ルカ福音書23章35-43節
35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
王の力
年間の主日の最後が「王であるキリスト」というふうに定められていて、来週からは待降節に入るわけですけれども、最後がこの王であるキリストで年間の主日が締めくくられています。若いときから思っていたんですけれど、王であるキリストってどう考えたらいいのかなというかですね、現実問題も王様がいないので、今の現代社会には。たぶんこの教義ができたときは、たぶんヨーロッパの国々が絶対君主時代というか、王様に囲まれていて、それでバチカンの力が弱くなる。そんな戦いの中で、結局キリストこそ本当の王様だったということを言わなければならなかったという時代背景があるかもしれないですけれど、今はもう王様、どこにもいない。ほぼいないですから。王であるということをわざわざ言う必要性がどこにあるのかなというですね。
そういう疑問も持っていました。
でも、だんだん年を取るにつれて思うのは、やはりイエス様が主であるということは非常に大事なことじゃないかというふうに、だんだんと考え方が変わってきたんですね。というのは、いわゆる子どもたちが読むファンタジー物語、ナルニア国物語とか指輪物語とか、ああいうお話はおとぎ話ですけれども、だいたい王様が出てくるんですよ。
しかも、国が混乱している時はどうかといったら、王様の力が弱かったり、王様がいなかったり、王様が年をとっちゃったとか、病気だったとかってですね、王の力が弱くなった時に、その国に大きな混乱と貧困と戦いと悪の力がはびこってくる。
そこで、本当に力のある王様が即位して、王の力が発揮されると、その国が安定するという、王が本当の方がいるところはですね、秩序が保たれる、秩序と正義が保たれて悪の力が抑え込まれるということと、もう一つは、王の力が強いところでは国が豊かになると。王の力が弱いとみ
【ミサ説教】ルカ福音書18章35-43節「本当のことが見えたら」
ルカ福音書 18章35-43節「本当のことが見えたら」2025年11月17日年いやしのミサ旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ私たちは実は見えていないことが多いのかもしれません。本当に大事なことが見えるようにイエス様に願いましょう。目の見えない人はイエス様のいやしをいただいてそのままイエス様に従いました。私たちも、一人ひとりにイエス様が開いてくださる道を歩みましょう。
年の黙想やら、引っ越しやらでご無沙汰していました。
神父さんは防府教会に赴任しました。
福音朗読 ルカ福音書 18:章35-43節
イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
本当のことが見えたら
ちょうど今日の福音書は、ルカの18章イエス様のちょうど癒しのところですよね。ある盲人が、目の見えない人が物乞いをしていて、群衆が、多くの人が通っていくのを見て。目が見えないから他の人に聞くわけですよね。ナザレのイエスの通りだと言って、イエス様の評判はこの盲人も聞いていたのであろうと思われますから。それで彼は自分にも愛おしいと思ったのでしょうけど、ダビデのこういうイエスを、私を憐れんでくださいと叫んだわけですね。
でも、周りの人がうるさいから、叱りつけて黙らせようとしたが、ますます大きな声でダビデの声、私を憐れんでくださいと叫び続けたということですね。
実際、目の見えない人は目が見えないというのは非常に大きな、当たり前ですけど、大きなハンデなので、どこを歩いているのか分からないわけですから、やっぱり大きな声を出すしかないわけなんですよね。
目の見えない人と付き合っていると、実はこういうことが多くて、分からないことがあったら、結局集まりとかだったら、普通、目が見えてたら受付とかに行って、これはどうですかとか、そういう人と会っているわけですけど、目が見えない人は受付がどこか分からないから、だからこれほんとこれよくあることで、大きな声でとにかく言うしかないんですよね。
だからわりと目の見えない人は大きな声でわりとちょっとみんなに聞こえるように、とにかく誰かに分かるように、大きな声でこうわりと言う人多いんですよね。それはもう一つの障害があるから仕方がないですけど、目が見えてたら大声を出さなくて、むしろ全然構わないんですけれど、やはり仕方がないですよね。
目が見えないんだから、もう誰がどこにいるか分からないから、困ったことがあったら言わざるを得ないんですよね。
日本語でね。空気を読むとかっていうことがあって、空気を読むって英
【ミサ説教】ルカ福音書18章9-14節「本当の祈り」
ルカ福音書18章9-14節「本当の祈り」2025年10月26日年間第30主日ミサ防府カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ私たちが生きていく世界で、自分のことであれ、周囲の人のことであれ、私を憐れんでくださいという祈りを謙遜に捧げることこそ私たちクリスチャンの一番の使命ではないでしょうか。そのような祈りによって私たちの中に神様の力が働いていくと思います。
三週間ほど説教ライブはお休みです。
福音朗読 ルカ福音書18章9-14節
9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
本当の祈り
今日の福音書はルカの18章を二人の人の祈り方をイエス様が対照的に比較しているというか、描いているという形のたとえ話なんですけれども、ルカの福音書では、特にこのように対照的なこの二人の人を挙げて、そして私たちにタイプをかけるというのはですね、ルカの福音書の大きな特徴です。放蕩息子とそのお兄さんとか、マルタとマリアとかですね、対照的な。二人の態度を取り上げるわけですね。
今日は祈りの態度で、一人はファリサイ派の祈りで、もう一人は徴税人の祈りということですが、
ファリサイ派の人の祈りは。実際、神様に感謝をしているのですが、これが純粋に祈りかどうかも、なかなかちょっと難しいかなというふうに思います。結局、自分がやったことを誇っているというか、自分がやっていることを、まあ何か神様に報告してるよね。私は週に2度断食し、全収入の10分の1を捧げていますと。自分のやったことを神様に言っているだけで、他の人と比較しているわけですが、これが本当に祈りかどうか、なかなか難しい感じは、やっぱり祈りは感謝するとしても、神の恵みを感謝するものであって、自分がやったこと、これをやりますと、これをやりますと報告するところではないので、ちょっとこの人の祈りはと祈りと言えるかどうかというのは、確かに大きな疑問があります。
逆に徴税人、徴税人というのは、罪人の代表者で、税金を集めてローマ帝国の税金が集まって売国奴でですね、それでもってピンはねとかしているから、なかなかお金持ちであって非常に嫌われた人なんですけど、罪人の代表者みたいな。
その人は遠くに立って胸を打ちながら、神様は罪人の私を憐れんでくださいと、神様に自分の弱さ、至らなさをさらけ出して、神様に憐れみを願っている。これこそやはりこの態度を神様が義とされた義とされたということですけれども、でもそれは何か本当に私たちの宗教的な態度というのはどこにあるのかと言えば、やっぱりこのようにですね、自分の弱さや至らなさを