リジョイス聖書日課
リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
最も重要な掟神を愛し隣人を愛する(マタイによる福音書 22章34-46節)
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 (マタイによる福音書22章40節) ある律法の専門家が、主イエスを試そうとして尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。主イエスはこう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(37~40節)。申命記6章5節とレビ記19章18節が組み合わせられて、律法全体と預言者、すなわち聖書全体がこの二つの掟に基づいていると言われます。私たちは、聖書の教えを神への愛と隣人への愛を基とする教えとして理解します。また、神への愛のない隣人愛はなく、隣人愛のない神への愛もないと言えるでしょう。 主イエスは、私たちの主として、ご自分を十字架でささげて、完全な愛を示し、この最も重要な掟を完全に満たしてくださいました。その証しとして、御父は主イエスを栄光の体で復活させられました。そして、天におられる主イエスは、今や聖霊によって私たちの心にご自分の愛を注いでくださり、私たちが神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することができるようにしてくださるのです。愛のない私たちが愛することができるとは、ただ神の恵みにほかなりません。 【祈り】 主イエスよ。私たちが神を愛し、自分を愛し、隣人を愛せますように。
神よあなたはこんなところにも!(詩編 139編)
陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。 (詩編139編8節) 私たちは常に喜びに溢れているわけではありません。闇に紛れてしまいたいと思うときもあり、神の御顔から隠れようとするときもあります。 「陰府」とは、死者が辿り着く場所、光も届かない暗闇が支配する場所、あるいは絶望が支配する場所であり、私たちが考えうる、神から最も遠く離れた場所です。一切の希望を失い、何のやる気もおきず、ただ横たわっているような時を過ごすこともあるでしょう。それは、一見すると、神への純粋で従順な信仰からは全くかけ離れたように見える状態です。 ところが、詩人は「見よ、あなたはそこにいます!」と言うのです。どこに隠れようとも、もう逃げ場はないという、神の裁きに対する恐怖ではありません。神の赦しの恵みと憐れみが、そんなところでも私たちを待ち受けていた!と驚くのです。 神の恵みはこんなところには届かないだろうと思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、従順ではないときにも、神を見失い、絶望しているときにも、まさにその場所で、神は私たちを憐れみと赦しの恵みをもって待っていてくださいます。陰府にさえも降られた主イエスをとおして(使徒信条)、神はそこに横たわる私たちをも、赦しの恵みへと招いておられます。 【祈り】 私たちの内にある深い闇を光に変えるほどの恵みをもって待っておられるあなたに目が開かれますように。
神のまなざしに生きる(エズラ記 5章)
しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず、…王の返書が送られてくるのを待った。 (エズラ記5章5節) エズラ記5章は、長く中断していた神殿再建が、再び動き出す場面を描いています。 まず彼らに与えられたのは、神の言葉でした。預言者ハガイとゼカリヤが語った神の言葉によって、ゼルバベルとイエシュアは立ち上がり、再び神殿の工事を始めました(1、2節)。このように、神殿再建の力は、神の語りかけから生まれました。 しかし、再建の働きはすぐに順調に進んだわけではありません。地方総督が現れ、本当に再建の許可があるのかと問いただしました(3、4節)。しかし、それでも工事は止まりません。「神の目がユダの長老たちの上に注がれていた」からです(5節)。人びとから疑いの目が向けられているそのときにも、神ご自身が彼らの働きを見守り、支えておられたのです。 工事が長く中断していた間も、神は沈黙しておられたのではなく、再び働きが進むように備えておられました。そして時が満ちて、作業を再開するとき、神のまなざしは彼らの上に確かに注がれていたのです。 私たちもまた、何かをやり直そうとするときには、自分の思いだけに頼るのではなく、まず神の言葉に耳を傾けたいものです。そして同時に、神の目が私たちの上に注がれていることを覚えましょう。 【祈り】 きょうもあなたの御言葉に聞き従い、あなたのまなざしの中を生きる者とならせてください。
中断されても神の時を待ち望む(エズラ記 4章)
そのときから、エルサレムの神殿の工事は中断されたまま、ペルシアの王ダレイオスの治世第二年にまで及んだ。 (エズラ記4章24節) エズラ記4章は、神殿再建という主のための働きが妨げられ、中断に至る出来事を描いています。 周囲の人びとが協力を申し出たとき、指導者たちはそれを丁重に断りました(3節)。これは多神教的な礼拝を避け、イスラエルの神、主だけにささげられる純粋な礼拝を守るためでした。しかしその結果、妨害が起こり、ついには工事が停止させられてしまいました。 このように、人びとの反対によって工事が中断されることは、外から見れば神の民の敗北に思われるかもしれません。しかし、神の御心にかなった働きであっても、中断が起こることがあります。物事が思うように進まないからといって、それが神の御心でないとは限りません。 このことは、イエス・キリストの十字架を思い起こさせます。主イエスは人びとの反対によって十字架につけられ、そのときすべてが終わったかのように見えました。しかし主は、ご自分が苦しみを受けて殺され、三日目によみがえることを前もって語っておられました(マコ8章31節)。十字架は敗北ではなく、神のご計画による復活の栄光への道でした。 主は沈黙しているように見えるときにも働いておられ、やがて御心を成し遂げてくださいます。 【祈り】 苦難のときこそ、祈りと御言葉に立ち帰り、あなたの時を待ち望む者とならせてください。
御言葉に従って歩み出す(エズラ記 3章)
第七の月の一日に、彼らは主に焼き尽くす献げ物をささげ始めた。しかし、主の神殿の基礎はまだ据えられていなかった。 (エズラ記3章6節) 捕囚から帰還した指導者たちは、神の民を導く上で大切な順序をよくわきまえていました。彼らはまず祭壇を築くことから始めたのです。神殿の建築を急ぐのではなく、何よりも礼拝を第一に据えました。彼らが祭壇を優先したのは、神の民であることの証が建物の立派さにあるのではなく、主に向かって礼拝することそのものにあるからです。 また指導者たちは、民を導く方法においても確かな基準をもっていました。それは、神の律法に従うことです(2、4節)。主は御言葉によって道筋を示され、民はその御言葉に従って歩みました。エズラ記3章は、共同体を立て直していく上での拠り所が神の言葉そのものであることを、はっきりと示しています。 やがて基礎が据えられたとき、民は声を合わせて賛美しました。「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」(11節)。彼らがここで確かめたことは、主の恵みは揺らぐことなく、かつて主に背いた自分たちにさえ、今なお注がれているという事実です。 私たちもまた、まず神に向かうところから回復が始まります。揺らぐことのない主の恵みに信頼して御言葉に従い、礼拝を生活の中心に据えて歩み出していきたいものです。 【祈り】 神よ、揺らぐことのないあなたの恵みに信頼し、御言葉に従って歩む心をお与えください。
きょうも神との生きた交わりを(エズラ記 2章)
祭司、レビ人、民の一部、詠唱者、門衛、神殿の使用人はそれぞれ自分たちの町に住んだ。イスラエル人は皆それぞれ、自分たちの町に住んだ。 (エズラ記2章70節) 主がキュロス王と民の心を動かし、バビロンからの帰還の道が開かれました。2章では、帰還した人びとの名簿が記されています。捕囚を経験した人びとは、土地を失い、遠くへ移されても、なお神の民であり続けました。そして今、神に心を動かされて、彼らはエルサレムの神殿を建てるために上って行きます。 この名簿をよく見ると、特に丁寧に記されているのが、祭司やレビ人、詠唱者、門衛など、礼拝に関わる人びとです。また、系図を証明できない者については、特に祭司の場合、記録が確認されるまで務めを禁じられました(59~63節)。ここからわかることは、帰還の目的が単なる生活再建ではなく、何よりも礼拝の回復にあったということです。それは、失われていた神との交わりがもう一度取り戻されることにほかなりません。 また、最初に帰還した人たちの総数は四万二千三百六十人でした(64節)。ここには多くの人の名前が書き留められています。これは、神がご自分の民を一人残らず覚えておられることのしるしです。捕囚という大きな苦難を経験した人びとも、神の御前では忘れられていませんでした。同じように、神は今も、私たち一人ひとりの名を知っておられます。神は私たちの名を呼び、ご自分との交わりに招いておられます。 【祈り】 きょうもあなたとの生きた交わりを喜ぶ者とならせてください。
心を動かす神の働きに期待して(エズラ記 1章)
主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。 (エズラ記1章1節) エズラ記は、神の民がバビロン捕囚から戻り、エルサレム神殿を再建する様子を描いています。礼拝の場として神殿が再建されるとともに、荒廃した民の心に秩序が回復されようとしています。神への礼拝が新しくされるのです。 そのきっかけは、神が「ペルシアの王キュロスの心を動かされた」ことにありました。つまり、捕囚からの帰還は決して偶然の出来事ではなかったということです。歴史の主導権を握る神が、異教の王の心をも動かされたのです。 また、神は王だけでなく民の心をも動かされました。「神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした」のです(5節)。ここには、神が民の心を奮い立たせ、民が応答する様子が記されています。 回復の始まりは、神が人の心に触れてくださることにあります。かつて神がキュロス王の心を動かし、また多くの民の心を奮い立たせて帰還の歩みを起こされたように、神は今もなお、私たちの心に働きかけてくださるお方です。ですから、私たちは、自分の乏しさに目を向けて諦めるのではなく、神が心を動かしてくださることに期待して、きょうも神の御前に自分を置きたいと願います。 【祈り】 神よ、わたしの心に触れて、奮い立たせてください。あなたの御心のために、わたしを用いてください。
神のものは神に返しなさい(マタイによる福音書 22章15-22節)
彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイによる福音書22章21節) ファリサイ派の人びとは、その弟子たちをヘロデ派の人びとと一緒に主イエスのところに遣わして尋ねさせます。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。主イエスが「律法に適っている」と答えたら、群衆は主イエスに失望して去っていくでしょう。すると、ファリサイ派の人びとは主イエスを捕らえることができます。もし主イエスが「律法に適っていない」と答えたら、ヘロデ派の人びとが主イエスをローマ皇帝に背く者として訴えることができます。 主イエスは彼らの悪意に気づいて、税金に納めるお金を見せるように言い、「これは、だれの肖像と銘か」と尋ねます。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスはこう言われます。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。 デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻まれていました。それに対して、人間は神に似せて造られ、神のかたちが刻まれています。皇帝には地上の事柄の権威が委ねられています。けれども、人間を真実に支配するのは生けるまことの神です。主イエスは、皇帝の権威は相対的であり、神の権威が絶対的であることを示されました。私たちには、神のために生きる人生の幸いが与えられているのです。 【祈り】 神よ、あなたのものである私たち人間が、あなたのために生きることができますように。
悔い改めようとはしなかった(ヨハネの黙示録 16章)
人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。 (ヨハネの黙示録16章9節) 神の怒りがその極みに達し、最後の災いが始まりました(15章)。最後の災いを前に、人びとは、どう振る舞ったのでしょうか。黙示録は、「この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった」、「天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった」(11節)と繰り返し語ります。最後の災いに至っても、人びとはなお悔い改めず、頑なに神に背き続けるのです。悔い改めないだけではありません。彼らは、神に戦いを挑もうとさえします(16節)。しかし、小羊の血のゆえに、勝負はすでについています。 最後の災いに至っても、自らの罪に気づけず、主に立ち帰ることもできない。私たちも、その一人でした。しかし主は、そういう私たちを憐れんでくださいました。主イエスが、私たちの罪をすべて十字架で負ってくださいました。それだけではありません。自分の罪に気づかせ、十字架がこのわたしのためだったと、主イエスへの信仰を与え、滅びから救い出してくださいました。すべて主の御業です(エフェ2章1~10節)。 あらためて心に刻みたいのです。わたしのために父、子、聖霊なる神が成してくださった御業を。その恵みにきょうも生かされていることを。 【祈り】 主よ、十字架によって与えられたありえない恵みに感謝し、あなたを礼拝し、賛美する者としてください。
あなたを賛美せずにはおられません(ヨハネの黙示録 15章)
七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。 (ヨハネの黙示録15章1節) 「神の怒りが極みに達する」時、それは、主に立ち帰る者を一人も失わないように、主が忍耐に忍耐を重ねた末に、ついに悪に終止符を打たれる最後の災いの時です。 主の怒りが極みに達し、最後の災いが始まる。そう聞くだけで、恐ろしくなり、身構えます。しかし15章で目にするのは、泣き叫ぶ声でも、逃げまどう姿でもありません。救われた者たちが竪琴を手に歌う姿です。 その様子を黙示録は、「彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった」と語ります(2、3節)。 「モーセの歌」、「海の岸」、出エジプトの葦の海の奇跡を思い起こさせる言葉です。主はご自分の民を一人残らず守り抜き、主に背いたエジプト軍を滅ぼし尽くされました。 十字架で御怒りを負われた主イエスが、信じる者を守り抜き、導かれる岸、それは何の汚れもない透き通ったガラスの海の岸です(2節)。 主イエスを信じる者にとって、神の怒りが極みに達する日は、足がすくみ、逃げまどう日ではありません。ガラスの海の岸に立ち、「主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ」と、主を礼拝し、喜びに満たされて賛美する日です(4節)。 【祈り】 主よ、あなたの守りを覚え、あなたを賛美する者としてください。
小羊がシオンの山に立っている(ヨハネの黙示録 14章)
見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。 (ヨハネの黙示録14章1節) 「主よ、いつまでですか」。悪が暴れまわる世にあって、私たちは、そう叫ばずにはいられない現実を生きています。そんな私たちに黙示録は「見よ、小羊がシオンの山に立って」いると告げます。私たちを救うために十字架で屠られ、復活された小羊イエスが、今この時も、立っておられます。 私たちはこの小羊イエスを本当に見ているでしょうか。むしろ、不安や困難の中で、目の前のことばかりに心奪われ、主への賛美を忘れていないでしょうか。 私たちの中に、悪に勝ち、立ち続ける力などありません。その力は、私たちのために立っておられる十字架と復活の主イエスにあります。 主への賛美を忘れる私たちに、黙示録は、その額に小羊の名と、小羊の父の名とが記された十四万四千人の者たちが、小羊と共に、彼らしか覚えることのできない新しい歌を賛美していたと語ります(1、3節)。 主イエスを信じる者は、小羊イエスの十字架の犠牲の故に、すでに、この御国の賛美の群れに、一人残らず、入れられています。私たちが見るべき方は、この主イエスです。 主イエスは、今この時も、不安や困難の中で主を見失い、賛美を忘れる私たちのために、立っておられます。この方が、欠けだらけの私たちの賛美を支えてくださいます。 【祈り】 主よ、立っておられる小羊に感謝し、賛美する一日としてください。
ここに知恵が必要である(ヨハネの黙示録 13章)
耳ある者は、聞け。 捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。… ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。 (ヨハネの黙示録13章9節~10節) 黙示録は「耳ある者は、聞け」と、私たちに告げます。私たちは溢れる情報の中で、何が真実かわからない世に生きています。だからなおさら、何に聞くかが、すべてを左右します。 13章には、私たちを真実から遠ざけようとする二匹の獣が登場します。獣には悪魔(竜)から「あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する」力と権威が与えられました(2、7節)。その圧倒的な力の前に、人びとはその巨大な力が悪魔によるものだと見破ることができません。むしろ、巨大な力に心奪われ「だれが、この獣と戦うことができようか」と、獣を拝みはじめるのです(4節)。 さらに黙示録は、第二の獣に小羊の角に似た二本の角があったと語ります(11節)。小羊とは主イエスを思わせる言葉です。獣は、まるで本物の神のように振る舞い、私たちを巧みに陥れるのです。 私たちは、偽りの神が溢れる世に生きています。そういう世に生きる私たちに黙示録は「ここに知恵が必要である」と語りかけます(18節)。知恵とは、誰に聞き、誰を礼拝すべきかを見失わないことです。十字架で命を捨てた主イエスだけが、命を与える本物の小羊です。この方に忍耐強く聞き、礼拝し続けることが生命線です。主イエスは、聞き続ける者と共にいて、守り抜いてくださいます。 【祈り】 主よ、きょうも御前に静まり、あなたにこそ聞く者としてください。
すでに決着はついている(ヨハネの黙示録 12章)
さて、天で戦いが起こった。…竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。 (ヨハネの黙示録12章7節~8節) 黙示録12章は、すでに天では決着がついていると告げます。勝負を決めたのは主イエスの十字架の血です。11節で黙示録は、「小羊の血と、自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った」と、主イエスの圧倒的な勝利を賛美します。 天で敗北した「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は…地上に投げ落とされ」ます(9節)。しかし悪魔はあきらめません。地上にいる「神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て」行きます(17節)。 そのように悪魔が依然暴れまわる地上では、「主よ、どうしてですか」と叫ばずにいられない悲しみや理不尽な出来事、不正義が溢れています。その現実を前に、主への信仰が揺れます。揺れる心を、主イエスから引き離そうと悪魔が狙っています。主への信仰が揺れる私たちの現実を、主イエスは誰よりもご存じです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハ16章33節)と、私たちと共にいて励まし、守り続けてくださっています。 すでに天では決着がついています。再び主イエスが地上に来られる時の結果も明らかです。この勝利された主イエスに心を向け、従い続けることこそ、御国へと続く道です。 【祈り】 主よ、嘆く日も、勝利の主を見上げ、あなたに従う日としてください。
地上に神の国が完成する時(ヨハネの黙示録 11章)
「この世の国は、我らの主と、 そのメシアのものとなった。 主は世々限りなく統治される。」 (ヨハネの黙示録11章15節) 黙示録11章の前半には、第六のラッパの吹奏による第三の場面が描かれています。神から遣わされた二人の証人が、千二百六十日の間、預言します。彼らは力強く働きますが、獣によって殺されてしまいます(7節)。けれども、三日半の後、神の息によって彼らは立ち上がり、雲に乗って天に上っていきます(11、12節)。 解釈が難しいところですが、これはどのような苦難の時代にも、神の預言者が絶えないことを示していると言えるでしょう。神の言葉を語る預言者は苦難を身に受けますが、最後には神によって祝福されます。 15節で第七のラッパが吹奏されます。すると、天からの大声がありました。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」。いよいよ、神とキリストの支配が地において実現することが宣言されます。敵対勢力は完全に滅ぼされ、地上に神の国が完成するのです。 19節に「そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え」とあります。かつて神殿の中心に契約の箱がありました。それが天の神殿で再現することは、決定的な終末の始まりを意味しています。歴史はこの終末に向かって動いています。私たちにとって終末は、救いの完成にほかなりません。 【祈り】 主よ、終末の救いの時まで、神の言葉を語り続けさせてください。
御子イエスの婚宴の礼服とは何か(マタイによる福音書 22章1-14節)
「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。」 (マタイによる福音書22章11節) 主イエスは、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と言われます。ここでの王は神であり、王子は御子イエスであり、婚宴は御子イエスにおいて到来した天の国を表しています。王は家来たちを使いに出し、婚宴に招いておいた人びとを呼ばせますが、来ようとしません。招いておいた人びとは王の招きを無視しました。そこで、大通りで見かけた者皆を集めるよう、王は家来たちに命じて、王子の婚宴は客でいっぱいになります。招いておいた人びととはイスラエルの民を指していて、今や婚宴はすべての人に開かれ、福音は異邦人にも告げ知らされているということです。 さて、その客の中に、婚礼の礼服を着ていない者がいました。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と王が尋ねます。その人が黙っていると、王は側近の者たちに、男の手足を縛って外の暗闇にほうり出すように命じました。 この礼服とは何でしょうか。それは、信仰であり、へりくだりだと言えるでしょう。天の国に入るとはまったくの恵みです。しかし、「畑に」「商売に」と自分事を優先して、招きを無視する者はふさわしくありません。信仰をもって神の御前にへりくだる者が天の国に入れられるのです。 【祈り】 神よ、あなたの招きに応えて天の国に生きることができるよう、信仰とへりくだりをお与えください。
御手の業をどうか放さないで!(詩編 138編)
主よ、あなたの慈しみが とこしえにありますように。 御手の業をどうか放さないでください。 (詩編138編8節) わたしの小学一年生の子は、いろいろなことに興味があって、何でも試してみたい年頃です。怖いとわかっていても、高い壁や木に登ってみようとします。そしてわたしの手を掴んで、「手を放さないで!」と念を押すのです。間違ってもわたしが手を放さないと分かっていても、です。 詩人ダビデも、神に向かって「御手の業をどうか放さないで!」と訴えます。ダビデは詩の後半で自分の人生を振り返り、神がすべてを成し遂げてくださる信頼できるお方であるとの信仰を深めています。それにもかかわらず、「手を放さないで!」と訴えずにはいられなかったのです。 子どもが父親にそう訴えるのは、父親を信頼していないからではありません。信頼はしているが一人では怖いという、自分の弱さの率直な表明です。その言葉を聞くと、頼られている喜びを感じ、愛おしくなります。 神は決してお見捨てにはならないと分かっていても、どうかわたしを置いていかないでと祈らずにはいられません。その祈りは決して不信仰から出た言葉なのではなく、むしろ神の前に自分が弱い者であることの表明です。ですから神は、「御手の業をどうか放さないで」と訴える子どもたちの言葉をご自分への信頼の証しとして喜んで聞いてくださり、私たちへの愛を深めてくださいます。 【祈り】 率直な心の叫びに耳を傾け、御手の業を離さない慈しみに感謝します。
口には甘く腹には苦い神の言葉(ヨハネの黙示録 10章)
わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。 (ヨハネの黙示録10章10節) 黙示録10章には、第六のラッパの吹奏によって起こったもう一つの場面が描かれています。一人の天使が天から降ります。「手には開いた小さな巻物」を持ち、「右足で海を、左足で地を踏まえて」立っています(2、3節)。海と地を踏まえて立つ天使の姿は、そのメッセージが、全世界にかかわることを暗示しています。 天使は、「右手を天に上げ、世々限りなく生きておられる方にかけて」誓いました(5、6節)。「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する」(6、7節)。つまり、第七のラッパの吹奏とともに、神の救いの計画が成就するのです。 ヨハネは、この救いの計画が記されている巻物を「受け取って、食べてしまえ」と天使から命じられます(9節)。彼が受け取って食べると、口には蜜のように甘かったのですが、腹は苦くなりました。巻物に記されているのは神の言葉です。神の言葉を読み理解することは甘美で喜ばしいことです。しかし、そこには罪に対する神の怒りと審判が記されていますので、皆が喜んで受け入れてくれるわけではありません。それゆえ、腹には苦くなりました。しかし、真の預言者は、御言葉を真っすぐに語る責任が神の前にあるのです。 【祈り】 主よ、どのようなときも、教会が神の言葉を真っすぐに伝え続けることができるように導いてください。
人間の恐るべき頑なさ(ヨハネの黙示録 9章)
これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、…偶像を礼拝することをやめなかった。 (ヨハネの黙示録9章20節) 黙示録9章には、第五のラッパと第六のラッパの吹奏とその結果が記されています。第五のラッパの吹奏によって、いなごの襲来が起こります。いなごの襲来は、旧約聖書以来、神の罰を象徴しています。人類の罪に対する罰は、「いなご」に象徴される悪の力が解き放たれることによって起こります。悪魔的な力は解き放たれると「いなごの群れ」のような具体的な形をとって地上に現れます。そしていなごは、「額に神の刻印を押されていない人」に害を加えます(4節)。しかし、殺すことはできませんし、五か月と期限が定められています(5節)。すなわち、この災害もすべて神の御支配のもとにあることが明らかにされています。またこれは、最終的な裁きではありません。 第六のラッパの吹奏によって、四人の天使が解き放たれます。その騎兵の数は二億です。その馬は「口からは火と煙と硫黄とを吐いて」おり、これらによって人間の三分の一が殺されます(17、18節)。地獄のような出来事が起こります。しかし、これらの災いにあっても、生き残った者は悔い改めませんでした(20節)。人間の恐るべき頑なさが示されています。人間は脅されても悔い改めることはありません。赦しがなければ、決して悔い改めることはできないのです。 【祈り】 主よ、イエス・キリストによる罪の赦しに感謝いたします。素直に悔い改めつつ歩ませてください。
神は御力によって歴史を支える(ヨハネの黙示録 8章)
第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。 (ヨハネの黙示録8章7節) 小羊が第七の封印を開きます。これがきっかけとなって、七つのラッパ吹奏が続きます。8章には、第一から第四のラッパ吹奏と、その結果が記されています。 七つのラッパ吹奏には、七つの災害が伴います。これらの災害は、出エジプトの際に起こった十の災いを想起させます。第一のラッパ吹奏によって起きた災いは、「血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた」ことです。モーセが天に向かって杖を差し伸べると、主は雷と雹をくだされました(出エ9章23節)。 第二と第三のラッパに伴う災害は、海と川に関する災いです。これは、ナイル川の水が血に変ったことに関連します。第四のラッパに伴う災いは、太陽、月、星の三分の一が損なわれるというものです。これは、モーセが手を天に向けると三日間暗闇がエジプトを襲ったことに関連します(出エ10章21節)。 出エジプトにおける神の介入は、破壊を目指すものではなく、神の民を救うためのものでした。これらの災いも同じです。災害の背後に神の御手があり、それらをとおしてさえ、神は民を救いに導くことができます。神の力強い御手に信頼することが何より求められています。神こそが歴史を支えておられるお方です。 【祈り】 主よ、力強い御手によって歴史を支えておられるあなたに信頼します。
小羊の血はわたしの衣を白くする(ヨハネの黙示録 7章)
「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、 命の水の泉へ導き、 神が彼らの目から涙をことごとく ぬぐわれるからである。」 (ヨハネの黙示録7章17節) 最後の封印が開かれる前に、ヨハネは、一人の天使が「生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを」見ました(2節)。そして天使が、イスラエル各部族から一万二千人ずつ刻印を押していきます。その総数は十四万四千人でした。彼らは民族としてのイスラエルというより「真のイスラエル」、すなわち、イエス・キリストによって救いにあずかった人びとを指していると思われます。彼らは終末の苦難の時に、救いの先どりとしてしるしを受けた限定された人びとでした。 9節以下では、その限定がなくなります。ヨハネは「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」を見ました(9節)。ここでは、決定的な終末における完全で普遍的な救いが述べられています。救いの完成の時です。その救いは「玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊」(10節)からのものです。 彼らの衣は、小羊の血によって洗われ、白くなっていました(14節)。罪によってどれほど汚れた人間の衣も、小羊の赤い血で洗われると雪のように白くなります。小羊の血、すなわち主イエスの十字架の血のみが私たちを罪から救います。そして私たちは、神によって目から涙をぬぐっていただけるのです。 【祈り】 主よ、主イエスの血によって、私の罪を清めてくださり感謝いたします。
すべての上に神の支配がある(ヨハネの黙示録 6章)
その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。 (ヨハネの黙示録6章4節) 黙示録6章には、メシアである小羊が、六つの封印を開く記事が記されています。最初の四つの封印の開封には共通点があります。いずれも、生き物が「出て来い」と呼びかけ、その呼びかけに応じて、馬に乗った人が登場します。馬の色は、白、赤、黒、青白です。馬に乗った人物は皆、天上界から呼ばれて登場します。つまり、彼らによって起こる出来事もすべて、神の御支配の中にあるのです。 彼らによって何が起こるのでしょうか。「赤」は流血、暴力の象徴です。「黒」は悪と不正の象徴です。そして「青白」は「もえぎ色」と考えられますが「はかなさ」の象徴です。この第四の馬が現れたとき、これに乗る者の名は「死」と呼ばれ、陰府が従い、「彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられ」ました(8節)。 世界は今も、さまざまな悪が横行しています。暴力、不正、死に圧倒されます。騎馬の描写はその様子を雄弁に描いています。しかし、この馬も騎手も神の支配のもとにあると聖書は語ります。すべての上に神の御支配があります。キリスト者はそれを知りつつ、現実に向き合うのです。神に信頼しつつ、主にあってなすべきことを果たすのです。 【祈り】 主よ、世界はあなたの御手の内にあります。どうかこの世界で、あなたの責任を果たさせてください。
ぶどう園と農夫のたとえ(マタイによる福音書 21章33-46節)
「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。」 (マタイによる福音書21章37節) 主イエスは、祭司長や民の長老たちといったユダヤの指導者に、ぶどう園と農夫のたとえを話されました。 このたとえ話の主人は神であり、ぶどう園は神の民イスラエルであり、農夫たちは指導者たちです。主人が送った僕たちを農夫たちが殺したとは、主なる神が遣わした預言者たちをユダヤ人が殺したことを意味します。また、主人は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って息子を送りますが、農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と言って、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまいます。これは、指導者たちが御子イエス・キリストを殺してしまうことを示しています。そして、そのとおり、主イエスは十字架につけられました。指導者たちは、神のぶどう園を自分たちのものにしたいという貪欲から、生けるまことの神を拒んだのです。 主イエスは、詩編を引用して、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」とおっしゃいます(42節)。殺された御子イエスが「隅の親石」となり、教会の基になられるということです。こうして罪人の罪を贖う神の御業が成し遂げられました。神の御業は偉大です。 【祈り】 天の父よ、あなたが送ってくださった御子イエスを敬って、神の国を受け継ぐことができますように。
御国を思い起こしてうたう歌(詩編 137編)
どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で。 (詩編137編4節) この詩編は、捕囚の民として連れて行かれた詩人がバビロンの川のほとりで歌った嘆きの詩です。故郷の歌を歌ってみせろとバビロンの人間が面白半分に嘲る、と彼は嘆きます。失われた故郷、神の都を思い起こして歌う歌を、面白半分には決して歌えないのです。 わたしは、ハンガリーの首都を流れるドナウ川を見て、ホームシックになることはありません。ただ、他教会や集会に呼ばれて奉仕をするとき、よく「日本語で賛美歌を歌ってほしい」と頼まれます。ハンガリーで日本語の賛美歌を歌うことは滅多にないのですが、久しぶりに歌ってみると、日本にいたときの思い出がよみがえってきます。礼拝やキャンプでの子どもたちの様子、青年たちの歌声。渡航後四年がたちますが、日本語で賛美することは、私たちが一体どこから遣わされ、何のためにこの国にいるのかを思い起こさせてくれます。 賛美の言葉を口ずさむとき、私たちは、私たちの国籍がこの世界ではなく、天の御国にあることを思い起こします。また、私たちが一体どなたに仕えているのか、私たちがどなたのものであり、どなたが私たちの王であるのかを思い起こさせてくれるのです。ですから、今日も口ずさんでみてください、主のための歌を! 【祈り】 私たちの本当の国籍がどこにあるのか、思い起こさせてくれる恵みの歌を、私たちの口にお与えください。
主は地上のすべてを治める王となる(ゼカリヤ書 14章)
主は地上をすべて治める王となられる。 その日には、主は唯一の主となられ その御名は唯一の御名となる。 (ゼカリヤ書14章9節) 14章は、終末的な出来事を描きます。それは神による外国勢力を用いた民への裁き、神の直接介入、光と命の泉の出現、裁きと神の王権の確立、そして聖なる礼拝の確立と新しい秩序の到来です。神の国の完成が描かれます。 その中で7節から11節では、神による国の再建が語られます。神に敵対する勢力により荒廃した世界が、失われた輝きを以前にも増して取り戻します。夕暮れを知らない光が輝き、命の水が湧き出で、地形は変わり、エルサレムが安住の地となります。その中で9節では、神が地上のすべてを治める唯一の王となられると告げられます。神の国が完成するのです。神の主権と栄光が全地に満ちるすばらしい時です。 これらの表現は、回復と命が神によって与えられること、神の祝福が溢れ流れて来ることを象徴的に表現しています。 20節に、すべてが「主に聖別されたもの」になるとありますが、私たちを取りまく現実は、ここに描かれた神の国からは、はるかにかけ離れているように思います。しかし、神は確実に神の国を進展させ、必ず完成されます。私たちはこの神の国の建設に参与します。教会、家庭、地域社会において、御言葉に生きる善き生活により、神の国を具現化するのです。 【祈り】 神の国を現実のものとして覚えることができるようにしてください。
試練を経て精錬された神の民へ(ゼカリヤ書 13章)
その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。 (ゼカリヤ書13章1節) 13章は、「罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる」という約束から始まります。これから語られる清めの御業は、すべてこの泉から流れ出ます。 まず、数々の偶像の名が取り除かれ、偽預言者たちも汚れた霊も、この地から追い払われます。神は、この地上世界の腐敗を完全に清められます。 さらに神は、わたしの「羊飼いを撃て」と言われ、羊の群れは散らされます(7節)。この御言葉を、主イエスはゲツセマネの夜、ご自身の受難と弟子たちの離散として引用しておられます(マタ26章31節)。 続いて、この地のすべてで「三分の二は死に絶え、三分の一が残る」と語られます(ゼカ13章8節)。これは、契約の民に下る裁きと、そこから残される者を示します。残された三分の一は、なお火の精錬を通されます(9節)。けれどもそれは罰ではありません。火を通った民が御名を呼び、神に「彼こそわたしの民」と呼ばれ、自らも「主こそわたしの神」と告白します。この精錬を経て、まことの神の民が確かにされていくのです。 この精錬は、神の民となるための条件ではありません。冒頭の泉によってすでに清められ、「わたしの民」と呼ばれた者を、いよいよ清くするための御手なのです。 【祈り】 神よ、どうか、あなたの洗い清める泉の恵みを深く覚えることができるようにしてください。
自らが刺し貫いた者を見つめ嘆き悲しむ(ゼカリヤ書 12章)
彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。 (ゼカリヤ書12章10節) ゼカリヤ書は終末論的な預言書です。救い主の到来と神に敵対する勢力の打倒が強調され、終末には、神による支配が完全に実現すると述べています。 この12章では、「その日」が艱難の時であることを示唆しています。また、「エルサレム」を終末論的に「主を信じる民」、またはその群れである「教会」と解釈できます。 「その日」には、地上のあらゆる国がエルサレムに立ち向います。しかし、「その日」には、神はエルサレムのすべての住民の盾となってくださり、「その日」には、神自らが打って出て、敵対する諸国を撃たれます。神は私たちキリスト者に、試練をも与えられます。しかし、教会に敵対する存在から、また苦難から守ってくださいます。さらに、敵対する存在を打ち滅ぼし、苦難を乗り越えさせてくださいます。 神は終末に至るまで私たちと教会を救い、守ってくださいます。それは私たちの罪のために犠牲となったイエス・キリストが十字架上で流された貴い血のゆえにです。私たちは自らの罪によって「刺し貫いた者」である主イエスを見つめ、聖霊が注がれる時、私たちは主イエスを仰ぎ見、主イエスを十字架につけた自分の罪を嘆き、悲しみ、悔い改めに至るのです。 【祈り】 神よ、独り子の犠牲が私たちのためであったことを深く覚え、悔い改めさせてください。
六十周年宣言途上にある希望の共同体(ヨハネの黙示録 7章9-17節)
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、 誉れ、力、威力が、 世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」 (ヨハネの黙示録7章12節) 「終末の希望についての宣言」として告白された「六十周年記念宣言」は、「わたしたちは、栄光の神の国への途上にある希望の共同体である」という一句をその基調としています。 「キリストによって現された神の国はすでに今恵みの王国として実現しています」。同時に、いまだ「なお未完成です」。神の国の完成は、栄光の主の再臨にかかっているからです。教会は「大いなる期待と喜びをもって主の再臨を待ち望みます」。 教会が、「期待」を抱くのは、「全世界の教会と共に、また天上の群れと一つになって神を礼拝」しているからです。天上の祝福を先取りして味わっているからです。教会が「喜び」を抱くのは、主が再臨される「審判の日」が、「主を待ち望むわたしたちにとっては大いなる慰めと希望の日」だからです。「救い主キリストは、わたしたちのためにすでに神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしたちから取り去ってくださ」いました。その日に、待ち望む者が見るのは、「天地創造の前から用意されていた神の国の喜びと祝福の内へと招き入れられ、それによって神の憐れみの栄光が現わされ」る光景です。 永遠の命を生き始めている教会は希望を胸に主の再臨を待ち望みます。 【祈り】 「わたしたちの希望である主イエス・キリストよ。御霊に導かれ、新しい歌を歌いつつ、わたしたちはあなたを待ち望みます」。
神の言葉その価値を知る知恵を(ゼカリヤ書 11章)
「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。…」 彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。 (ゼカリヤ書11章12節) 驚くほどに奇妙なのは、神の言葉が軽んじられたことです。聖書も知らず、約束にあずかることもなく歩んだ人びとにおいてではありません。神が語りかけ、神が御業をもって養い導いた民において、神の言葉の価値がふさわしく認められることがありませんでした。神は、預言者をとおして問います。自分なりに見て判断し、その価値を見積もって「わたしに賃金を支払え」。 払われた賃金は銀三十シェケルでした。これは、労働の対価でさえありません。奴隷への対価です(出21章32節)。まずは、預言者への価値判断でしたが、それは主とその言葉への価値判断でした。主は預言者に言われました。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を」(ゼカ11章13節)。 恐ろしい価値判断です。しかし、誰が神とその言葉の価値を正しく判断できるでしょうか。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。主イエスにも、同じ対価が支払われました(ヨハ1章14節、マタ27章9節)。 その価値を知るのは、福音においてです。キリストにおいて、救いの道を歩むに応じて、です。慌てて知ることもできません。 【祈り】 どのような希望が与えられているか、どれほど豊かな栄光に輝いているか、悟らせてください。
悔い改めて考え直す勇気を(マタイによる福音書 21章23-32節)
「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。」 (マタイによる福音書21章29節) 信仰とは、立派な言葉を並べることではなく、神の御前に立ち帰る歩みそのものです。祭司長や長老たちは、神殿の権威を守ることに腐心し、悔い改めを求める洗礼者ヨハネを拒み、ここでは主イエスを受け入れませんでした。彼らは口では神に従うふりをしながら、心は自己保身に囚われていたのです。 主イエスが語られた二人の息子のたとえでは、最初は「いやです」と言って拒絶した兄が、あとで「考え直して」父の願いに従いました。そのように、かつて過ちや反抗があったとしても、神はいつでも私たちが立ち帰るのを待っておられます。社会から疎まれていた徴税人や娼婦たちが先に神の国に入ると言われるのは、彼らが自らの不信仰を認め、素直に心を入れ替えたからです。 私たちも、日々の生活の中で神に立ち帰るための祈りを大切にしましょう。主が求めておられるのは、体裁を整えることではなく、自分の弱さに気づき、主の愛に信頼して一歩を踏み出す勇気です。悔い改めとは惨めな後悔ではありません。主の招きに応えて、喜びをもって新しく生き直すという希望の決断です。頑なな心を主の前に差し出し、主の望まれる道へと向きを変えましょう。その道の先に、豊かな赦しと大きな恵みのぶどう園が待っているのです。 【祈り】 主よ、悔い改め、考え直して、主の道を歩ませてください。
御言葉から離れず(箴言 30章)
神の言われることはすべて清い。 身を寄せればそれは盾となる。 (箴言30:5) 箴言は大切な知恵をさまざまな角度から教えます。そのすべては、私たちを神から離れさせず、神の近くにおらせて永遠の滅びから守り、祝福し、神を賛美させるための知恵です。30章でもその一つが教えられます。 それは御言葉に依り頼むことです。「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる」。神の言葉は人の知恵とは違い、清くて真実と力に満ち、依り頼む者を神の近くにおらせ、罪からも永遠の悲惨からも盾となって堅く守ります。 それだけに、「御言葉に付け加えようとするな。責められて、偽る者と断罪されることのないように」と教えます(6節)。御言葉に何かを加えることは、私たちを神から遠ざけ、危険です。御言葉から何かを減らすことも含めて(申4章2節参照)、よく注意しましょう。 8節に「むなしいもの、偽りの言葉」を遠ざけることと、「貧しくもせず、金持ちにもせず」とあるように、経済的な点での注意も必要です。貧しさから盗みを働いて神の御名を汚したり、飽き足りて「主など何者か」と不遜になることも(九節)、私たちを神から遠ざけ、霊的危険にさらします。 神に近くあることを幸いとし(詩73編28節)、箴言が教える神の知恵によって生きたいと思います。 【祈り】 主よ、私たちがどんなときにもあなたから決して離れず、あなたの御側近くにおらせてください。
主の御名に力を得て歩み続ける(ゼカリヤ書 10章)
わたしは主にあって彼らに力を与える。 彼らは御名において歩み続けると 主は言われる。 (ゼカリヤ書10章12節) きょうの聖句の「力」とは、飼い主のいない羊のようにさまよう心が、今すぐにでも必要とする力です。 「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい」(2節)。その空しさがすぐに明らかにはなりません。むしろ人を代え、様子を変えて、いろいろなことが語られます。そして、それは自覚もしないうちに、人の心に入り込みます。その慰めは一時的です。そして、苦しみ、疲れます。誰に従えばよいのか、わからなくなります。 主が与えてくださる力は、その人の心と思いを立ち上がらせ、一歩前へと進ませます。その力を受けて、「彼らは御名において歩み続けると、主は言われる」。その御名は、イエス・キリストです。「主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む」(詩9章11節)。依り頼む者たちは、羊飼いの声を聞き分けます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章18、20節)。主はすぐ近くにおられます。そして、その心と思いを日ごとに、あらゆる人知を超える神の平安の中へと守ります(フィリ4章5~7節)。 だから、私たちは歩み続けられます。その力は朝ごとに、御名を呼ぶ者へ新しく備えられるのです。 【祈り】 主よ、あなたに従う力を、きょうも与えてください。
王が来たろばに乗って高ぶりはない(ゼカリヤ書 9章)
見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。 (ゼカリヤ書9章9節) 神殿の建築がなされ、神への礼拝が霊的に再建されなければなりません。神の言葉への信頼が、見える現実の中で、信仰によって確認されます。主は周囲の国々の高ぶりを、ことごとく絶たれます(1~7節)。神を畏れる信仰に、神の守りが伴うことを思い起こさせます。「もはや、圧迫する者が彼らに向かって進んで来ることはない。今や、わたしがこの目で見守っているからだ」(8節)。 そして、未来の希望は一人のお方にかかっています。「見よ、あなたの王が来る」(9節)。そのお方こそ、主の民がダビデの子として、望みをかけるべき永遠の王です。「わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(サム下7章13節)。そのお方が主イエスです。主イエスはろばの子に乗って、エルサレムに入られました。死に至るまで従順に神に従い、勝利を与えられた王として。 この預言がなされたときも、また、主イエスにおいて成就したときも、その王の栄光は、人の目に隠されていました。しかし、神を礼拝する人びとは、そのお方を日々新たに知って、望みを抱き続けます。神の栄光はご自分を無にして従順に神に従い、一切の高ぶりのない王によって現されます。神を礼拝する人びとはこのお方を仰ぎます。 【祈り】 主よ、主を仰ぐ喜びをもって、きょうも歩ませてください。
勇気を出せ自らの霊を強められて(ゼカリヤ書 8章)
「勇気を出せ。 あなたたちは、近ごろこれらの言葉を 預言者の口から、度々聞いているではないか。… 神殿の基礎が置かれ 再建が始まった日から。」 (ゼカリヤ書8章9節) 神殿の再建が始まりました。それは、神の力と栄光が鮮やかな日でした。バビロンは倒れ、神の預言が成就し、破壊された神殿の基礎が据えられました。しかし、その基礎は、見た目が貧弱でした。「初めのささやかな日」を示すものでした(4章10節)。その後も、順調に進みませんでした。 しかし、信仰はここからです。信仰によって見ながら、将来の実りを望みます。自分の心と考えが進む道が決定的に重要です。「権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(4章6節)。むなしい思い込みや独断ではありません。主の言葉があります。その言葉によって、見えないものに目を注ぎます。そして、「勇気を出せ」。 そのような信仰をもって、神にひたすら祈り求めるのは決してむなしいことではありません。そこに喜びがあります。信仰によって見るべきは、神の御顔です。「神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(2コリント4章6節)。聞くべきは、その口から語られる一つ一つの言葉です。その言葉によって日ごとに望みを新たにしつつ、神を待ち望みます。「今やわたしは再びエルサレムとユダの家に幸いをもたらす決意をした。恐れてはならない」(15節)。 【祈り】 力と愛と思慮分別の霊よ、信仰の勇気を満たしてください。
果たして誰のため何のためか(ゼカリヤ書 7章)
「果たして、真にわたしのために断食してきたか。… ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。」 (ゼカリヤ書7章5節~6節) 神に従うことを喜びとするか、重荷とするか。二つに一つかもしれません。預言者に「節制して悲しみのときを持つべきでしょうか」と尋ねた人びとは、神に従うことを重荷とし始めていました。長年続けてきたけれども、喜びも変化もないかのように考えたのかもしれません。実際、神の預言が成就して、バビロン捕囚から解放されました。エルサレムの神殿の基礎も据えられました。すでに二十年近くが経ちました。しかし、最初の目覚ましい変化は続かず、神殿の工事も、さまざまな妨害の中で、滞っていました。 預言者をとおして、神が語られました。「主が先の預言者たちによって呼びかけられた言葉を知らないのか」(7節)。先祖たちに語られた言葉は、今も生きているのです。その時代、先祖たちは、その表向きの熱心にもかかわらず、心から聞き従うことはありませんでした。そして、「彼らは喜びの地を荒廃に帰させた」(14節)のです。 状況は変わりました。しかし、神へと向かう心の現実は変わったか。先祖たちに語りかけた主は、昨日もきょうも変わりません。悔い改めと信仰へと招いておられます。そのために、預言者が語り、主の言葉がそこに与えられました。 【祈り】 主のもとで重荷を軽くして、主を喜ぶ道へと進むよう、主の言葉を理解させてください。
足もとから萌えいでる若枝(ゼカリヤ書 6章)
「見よ、これが『若枝』という名の人である。 その足もとから若枝が萌えいでる。 彼は主の神殿を建て直す。」 (ゼカリヤ書6章12節) ゼカリヤは、バビロンから帰還したユダの民に神の言葉を語った預言者です。この帰還した民の中に大祭司ヨシュアがいました。主なる神は、ゼカリヤに、銀と金で冠をつくらせました。そして、大祭司ヨシュアの頭に載せ、「見よ、これが『若枝』という名の人である」と宣言するように命じました。こうして、主なる神は、大祭司ヨシュアを主の神殿を建て直すために遣わされました。 エルサレム帰還後、ユダの民に王はいません。そのため、大祭司ヨシュアが民を守り導く王としても働くことが主によって命じられました。祭司と王、両方の働きを行った大祭司ヨシュアは、来るべきメシアをあらわしていました。大祭司ヨシュアの中心的な働きは、神殿を建て直すこと、すなわち、礼拝を整えて導くことです。ユダの民がエルサレムで再出発するにあたって、礼拝を整えることは最も必要なことでした。 大祭司ヨシュアがあらわしていた、「若枝」と呼ばれる、来るべきメシアとは、イエス・キリストです。イエス・キリストは、大祭司として、王として、預言者として働かれます。イエス・キリストは、私たちと共にいて、私たちの礼拝を導いてくださいます。イエス・キリストに導かれた礼拝を土台として、これからも信仰の歩みを続けていきましょう。 【祈り】 主がいつも共にいて、私たちの信仰の歩みが守られますように。
すべての人を慈しむ神の気前のよさ(マタイによる福音書 20章1-16節)
「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」 (マタイによる福音書20章14節) 主イエスは、ぶどう園の主人と労働者のたとえで、神の慈しみの豊かさを教えてくださいます。一日の労働が終わると、最後に来た者から賃金が支払われます。日暮れに雇われた者は、与えられた恵みに感謝し、生かされる喜びに震えます。夜明けから汗を流した者は、周りと比べて、自分の考える正当な報酬を求めます。地上の社会は成果と効率で動きますが、天の国は主人の慈愛という別の物差しで満たされているのです。 一時間しか働かなかった者に一日分の賃金を与える主人の姿は、人間の目には不公平に映るかもしれません。しかし、主イエスが見つめているのは、労働の量ではなく、誰にも雇われず広場に佇んでいた者の切実な絶望です。主の心は、誰ひとりとして空腹のまま帰したくない、家族を養う糧を与えたいという愛と慈しみに満ちています。 神の恵みとは、そもそも資格なき者に注がれる無償の贈り物です。私たちは皆、主の憐れみによって招かれた者同士ではないでしょうか。自分の損得を計算する手を止め、主の「気前のよさ」を共に喜ぶとき、私たちの心に真の平和が訪れるのです。 【祈り】 主よ、私たちの狭い正義感であなたの愛をはかることがありませんように。比べる心を捨て、きょう生かされている幸いを感謝します。あなたの慈愛の中で、互いに愛し、主の招きを喜んで歩む者であらせてください。
怒るのに遅いようにしなさい(箴言 29章)
怒りやすい人はいさかいを引き起こし 激しやすい人は多く罪を犯す。 (箴言29章22節) 箴言は怒りを繰り返し戒めます。「激しやすい人はいさかいを引き起こし」(15章18節)、「罪を愛する者は争いを愛する」(17章19節)。 神は、私たちの人格の座である心に知識と意志だけでなく、感情も与えておられます。ですから、私たちは、すばらしいものに感動し、人の喜びや悲しみ、痛みに共感できます。感情は何と尊いものでしょうか。 しかし、否定的な感情である怒りには危険な面があります。「いさかいを引き起こし、…多く罪を犯す」。実際、私たち罪人の怒りは、人に対してだけでなく、神にも向けられます。カインは激しく怒り、ついに弟アベルを殺してしまいました(創4章5、8節)。何と恐ろしいことでしょう。 神の御心を無視することへの正しい怒りもあります(マコ3章5節参照)。しかし、私たちの怒りは自己中心的で一方的なことが多いため、これをよく支配することが極めて大切です。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」(ヤコ1章19、20節)。 主イエスは言われました。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタ5章5節)。 【祈り】 神様、聖霊の結ばせてくださる愛、寛容、親切、善意、柔和、節制(自制)などの実をわたしに与え、平和を造る者にしてください。
一つの巻物が飛んでいた(ゼカリヤ書 5章)
それは盗人の家に わが名によって偽りの誓いをする者の家に入り その家の中に宿り 梁も石ももろともに滅ぼし尽くす。 (ゼカリヤ書5章4節) ゼカリヤは、とてつもなく大きい巻物が全地に向かって飛んでいくところを幻で見ました。この巻物の表面と裏面には、人間の罪と裁きについて記されていました。この巻物がある家に入っていき、その家は滅ぼしつくされました。この幻は、神がすべての人間の罪を裁かれる方であることを示しています。神は、どのような罪も見逃すことはありません。 ゼカリヤは、次に幻でエファ升を見ました。エファ升の中には一人の女性が座っていました。この人は主の民の「邪悪」をあらわしていました。エファ升に鉛の重しで蓋がされ、この人は閉じ込められました。すなわち、主の民の「邪悪」が封じられました。 しかし、今度は、二人の女性が風を受けて出てきました。この二人には、こうのとりのような翼があり、エファ升を運び去ろうとしました。二人は、「邪悪」をあらわす人を閉じ込めたエファ升をシンアルの地、すなわちバビロンへと運びました。バビロンは、偶像崇拝の国であり、「邪悪」をあらわすこの人のために、神殿を建築しました。 「邪悪」は、主の民には必要ありません。神は、主の民から「邪悪」を取り除いてくださいます。逆にバビロンは、その「邪悪」のゆえに神に滅ぼされます。 【祈り】 神よ。私たちが悪から遠ざかり、罪に陥ることがないようにお守りください。
これは油そそがれた人たちである(ゼカリヤ書 4章)
彼は、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」と言った。 (ゼカリヤ書4章14節) ゼカリヤは、金でできた燭台を幻で見ました。燭台の頭部には容器が置かれ、その上に七つのともし火皿が付けられていました。ともし火皿には、それぞれ管が付いており、その右、左にそれぞれオリーブの木が立っていました。オリーブの木が燭台に絶えず油を注いでいます。燭台のあかりは暗闇を照らすものなので、神の目が絶えず民を見守っていることを表しています。苦しいバビロン捕囚の時を過ごしたユダの民を、神は決して見捨てませんでした。 二本のオリーブの木とは、「全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たち」です。この「二人の油注がれた人たち」とは、大祭司ヨシュアとゼルバベルをあらわしています。神は、このヨシュアとゼルバベルを用いて神殿再建事業を導きました(エズ5章2節)。万軍の主なる神は、ゼルバベルを「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」用いてくださいます(ゼカ4章6節)。 神より命じられた働きを成し遂げるのは、人間の力ではありません。ただ神の力によります。神は、働き人を召し出し、神の霊を注いでくださいます。こうして、神の働きは、成し遂げられます。神は、今も働き人を召し出し、聖霊を注いで教会を導いてくださいます。 【祈り】 今も、働き人を送ってくださり、教会を導いてくださっていることを感謝いたします。
わたしはお前の罪を取り去った(ゼカリヤ書 3章)
また、御使いはヨシュアに言った。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」 (ゼカリヤ書3章4節) ゼカリヤは、主の御使いの前に立っている大祭司ヨシュアとサタンを幻で見ました。大祭司ヨシュアは、エルサレムに帰還したユダの民の一人で、神殿再建を導いた人物でした。ゼカリヤは、汚れた衣を着て立っている大祭司ヨシュアを見ました。主は、御使いを通してヨシュアに「わたしはお前の罪を取り去った」と宣言されました。ヨシュアは、清いかぶり物を頭にかぶせられ、大祭司として民を導くこととなりました。 神は、御自身の働きに召し出す人を憐れんでくださり、その罪を清めて用いてくださいます。このことは、神が罪に汚れている民の罪を赦してくださり、必ず民を再生させ、用いてくださることを意味しています。エルサレムに帰還したユダの民は、こうして待ち望んだ神殿再建を開始することができました。 私たちは、決して神の前でふさわしい人間だから、神に選ばれて用いられるのではありません。真の大祭司イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったので、私たちの罪が赦されました。このイエス・キリストの贖いの業によって、神が私たちを選び、用いてくださいます。この救い主イエス・キリストにのみ依り頼んで生きていきましょう。 【祈り】 あなたが私たちを憐れんでくださり、罪を清めて用いてくださいますことを感謝いたします。